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「靖国神社」の教義はどのようにして生まれたのか【事物起源探究創刊号】

※松永英明個人誌『事物起源探究 創刊号』(2010年5月)より。

「近代」再考1
「靖国神社」の教義はどのようにして生まれたのか

◎事物起源から「近代」絶対視への懐疑

 私、松永は「近代」懐疑派だ。
 事物起源を探っていると、どうしても日本の近代化、あるいは明治維新という時代における「断層」にぶつからざるを得ない。今、私たちが特に批判も持たずに「日本的なもの」と思っている事物の非常に多くの部分が、実は明治維新・近代化によって生まれたものであるという事実が、事物起源研究によって次々と浮かび上がってくるのである。
 簡単に列挙するならば、「神前結婚式」は西洋風の結婚式を日本にも導入すべく、明治三十三年に作り上げられたものである。今の日本人が桜といえば思い出すソメイヨシノも、幕末に駒込染井村で品種として確立し、同じ(明治三十三年に「ソメイヨシノ」と命名された。
 日本の領域が「北海道から沖縄まで」とする概念も明治以降で、それまで琉球国も蝦夷地も異国だった。開国前の「鎖国」体制にあっても、長崎で清とオランダ、対馬の宗氏が朝鮮国、薩摩の島津氏が琉球国、松前八が取夷と交易をしており、この四か所が「外国との接点」だった。
 「君が代」の歌詞は古いが、メロディは明治以降に作曲されたものである。
 正月元旦の初詣は電鉄会社が宣伝してから広まったものであり、正月の年賀状は明治の郵便制度が整備されたことによって定着した。喪服はそれまで白だったが、明治中期から西洋に合わせて黒となった。家に神棚を置くようになったのも明治初期から。
 そして「国語」としての現代語が生まれたのも明治ならば、いわゆる「歴史的仮名遣い」が完成したのも、ひらがな・カクカナが確定した(変体仮名が変則のものとして排除された)のも、明治になってからのことである。
 このあたりはきちんと整理すると大変なことになるだろうが、ともかく、明治とそれ以前にはつながりはあっても大きな「断層」がある。ここで私は「断絶」という言葉を避けた。まったくとぎれているわけではないが、大きなズレが生まれたからだ。
 終戦の前と後でも大きな変化があったが、それ以上の巨大な断層が明治維新には存在している。だからこそ「明治事物起源」というそのものずばりの本が出たりもするわけだ。こうして考えてみると、「近代」に始まったいろいろなものはたかだか百五十年ほどの「伝統」しか有さないわけで、そこまで絶対視するほどのものではないと感じられてくる。

◎神道的じゃない靖国神社

さて、そんな中でふと疑問が浮かんだのが、靖国神社のことだった。靖国神社も戊辰戦争前後からの「新しい」神社だが、その発想というか教義がどうも他の神社と違っているような気がする。
 たとえば、日本的な御霊信仰というのは、基下的に「収者」の鎮魂をすることで怨みを鎮めようとするものだ。九州に流された菅原道真を天神様として祀ったりするのが最大の事例といえる。勝ち組だろうが負け組だろうが関係ない、むしろ敗れた人たちを手厚く葬るというのが日本古来のやり方である。
 ところが、靖国神社では戊辰戦争の「官軍」や人日本帝国の兵士を祀っている。戊辰戦争で幕府軍側についた戦死者、たとえば新撰組の近藤勇や土方歳三は祀られていない。上野で官軍と戦った彰義隊も、会津で自刃した少年たち白虎隊も、土方とともに五稜郭で闘った「蝦夷共和国」軍も、一切祀られていない。また、官軍と西南戦争を戦った西郷隆盛も靖国神社にはいない。
 旧来の日本神道であれば、ここで挙げたような人たちをまっさきに祀るのが「筋」というものである。さもなくば新政府は彼らの怨念によって滅ぼされるはずだ。ところが、靖国神社は政府軍(薩長または明治新政府、大日本帝国)に従った兵士のみを顕彰する。「神社」の意味がまったく違うのである。
 中曽根康弘元首相は「靖国参拝派」だが、政治的問題を回避するためにA級戦犯を分祀することを主張している。さらに「靖国神社の神主さんが(分祀に)反対しているが、どうも明治に国家神道になって、それで神主さんの視野が狭くなった。昔のように、もっとおおらかな神道に帰ったらどうか」と発言しているという。

◎合祀・分祀の教義について

二〇〇八年夏、私は「人力検索はてな」で以下のような質問を提示した。

 靖国神社の合祀・分祀問題について、あくまでも神道教義の問題として下記の点について教えてください。
 一九八七年十月一日付毎日新聞にて、松平永芳宮司は「神社には『座』というものがある。神様の座る座布団のこと。靖国神社は他の神社とは異なり『座』が一つしかない。二五〇万柱の霊が一つの同じ座ぶとんに座っている。それを引き離すことはできません」と述べています。
1 靖国神社(招魂社)以前(つまり明治以前)に、このような「座が一つしかない」形の「合祀」はあったのでしょうか。
1a あれば実例を。(一つの神社に複数の祭神がいるという形態ではなく、複数の霊を一つのものとしてして祀る形態)
1b なければ、招魂社がそのような形式を取った理由あるいは根拠について書かれている資料を。
2 このように「合祀された御霊をあとから分けることはできない」という教義の根拠(出典)はどこにあるのでしょうか。
3 この教義・合祀方法は、招魂社創設当初からのものでしょうか、後のある段階からのものでしょうか。最初からではないとすれば、いつの時点で考え方・御霊の扱い方が変更されたのでしょうか。
 神道教学・神道史的な観点からの回答をお願いします。

 この質問についてはなかなかズバリの回答は得られなかった。しかし、いくつかのことが判明してきた。
 まず、そもそも松平永芳宮司自身が言っているように、「『座』が一つしかない」というのは、靖国神社が「他の神社とは異な」るもの、つまり靖国独特のものだということだ。したがって、靖国神社の前身である招魂社が幕末に作られてからの新興宗教教義といってよい。

◎古来の神道と定義の違う「合祀」「分祀」

 次に問題になるのは、「合祀」という言葉の定義である。靖国の「合祀」と、他の一般的な神道の「合祀」は微妙に違うことを指しているようなのである。「一般の神道では「合祀」とは、一つの神社で複数の神格を祀ることと考えられる。たとえば、南方熊楠の『神社合祀に関する意見』の中に、「従来一社として多少荘厳なりしもの、合祀後は見すぼらしき脇立小祠となり」とある。『神道事典』では合祀を「(一)本殿合祀」「(二)境内合祀」「(三)飛地境内合祀」の三種類に分類している。いずれも、同じ建物の中に別の神様を「合わせ祀る」状態であって、つまり複数の神々を合祀しても、座は別々なわけである。
 今、ちょっと大きな神社などに行くと、その境内に小さな祠がいくつも並んでいたりする。あれが「合祀」の実例なのだ。
 だから「分祀」の例も存在する。最も有名なのは江戸の神田明神だ。神田明神はもともと大己貴命が祀られていたが、後に平将門がこの神社の「相殿神」とされた。つまり「同じ社の中でともに祀られる」という、本来の意味での「合祀」である。
 ところが、将門は新皇を自称した「逆賊」である。明治七年、明治天皇が行幸することとなったとき、将門は祭神から外されて境内摂社に移された。つまり「分祀」されたわけである。その代わりに大洗磯前神社から少彦名命が勧請された。つまり祭神の入れ替えが行なわれたわけである。今はまた将門も本社に戻り、三神が祀られている。
 しかし、靖国神社の主張における「合祀」「分祀」という用語はこれとは違っている。神田明神の場合は、大己貴命・将門・少彦名命がそれぞれ別の座にあって「合祀」されていたのだが、靖国神社の場合は「座」が一つしかなく、「二五〇万柱の霊が一つの同じ座ぶとんに座っている。それを引き離すことはできません」と主張されているのである。
 靖国神社は極めて特殊であると言わざるを得ないだろう。

◎某大学神道研究会の見解

 調べているうちに、どこをどう調べればいいのかわからなくなってきた。そこで、某大学の神道研究サークルにメールで尋ねてみることとした。丁寧な返答が返ってきたのだが、大学名・サークル名を出さないでほしいという要請があったので、その部分は伏せさせていただくこととする。まず、私が送ったメールの骨子は以下のとおりである。

 ネット検索で貴会の存在を知りました。神道についてかねて疑問に思っておりましたことがございますので、できれば質問させていただけないかと思い、ご連絡させていただきました。
 質問内容は、靖国神社の合祀・分祀問題についての神道教義上の質問です。実は、「人力検索はてな」にて質問したのですが、納得できる回答は得られませんでした。(※以下、上記質問の再掲)
 この質問で得られた回答をまとめ、また自分でもさらに調べてみましたところ、現時点では以下のような見解に至っております。
・明治以前の「合祀」とは、一つの座に複数の神を合体させるものではなく、一つの社に複数の神を合わせ祀ることであった(神道大事典等より)。同じ神社に複数の神が祀られる例は、霊光殿天満宮(天神様+徳川家康)など多数見られるが、これらでは別の祭神として扱っている。
・分祀という言葉は神道用語というわけではなく、靖国A級戦犯分祀の議論において登場したものと思われる。
・一度合祀された祭神が分けて祀られた例として、神田明神の平将門の例がある。
・靖国神社では「護国の英霊二四六万六五三二柱」という言い方をする一方で「靖国大神」という言葉も使っている。
・松平永芳宮司は「靖国神社は他の神社とは異なり『座』が一つしかない」と述べており、靖国神社は特殊であることが明言されている。松平宮司の発言に見られる教義は、明治になってから生まれた招魂社→靖国神社・護国神社において初めて「創造」されたものではないか?
・伯家神道、吉田神道、伊勢神道、復古神道等々、伝統的な神道各派の教義の中に、このような靖国神社の見解を裏打ちするようなものはあるだろうか?
 わたしの知りたいポイントは、要するに、「一つの座に合祀(合霊)している」「分祀は不可能」という靖国神社(松平宮司)の見解が、明治以降に靖国神社で生まれた独特のものなのか、それとも神道史上伝統をさかのぼることができるのかということです。
 なお、この疑問には、イデオロギー的な含みはありません。
 この問題につきまして、貴会にて何か情報・ご意見・こ見解をお持ちでしたら、ご教示いただけましたら幸いです。あるいは、参考文献の提示、問い合わせの可能な研究者・研究機関をご紹介いただけましたら、自分でも調べて参ります。突然のメールにてぶしつけな質問をさせていただきましたことをお許しください。よろしくお願いいたします。

 これに対する返答は以下のようなものだった(匿名を守るために一部編集したところがある)。

ご質問の件ですが、まず、下記のことをご了承ください。「当サークルは素人集団であり、専門家の集団ではない」ということです。私たち部員は基本的に、神社や神道文化が好きですが、「素人の物好き」と言いましょうか、神社・神道を専門に研究している部員は少ないのです。
 ですので、私たちの回答には誤りがある可能性もございます。下記回答の中でも述べましたとおり、神道においては「一社の故実」を重視します。ですから、私どもの回答が、靖国神社さんの回答と合致するとは限りません。私たちの回答が厳密な意味で正しいかどうかは、松永様ご自身で調査するなどして、お確かめになってください。また、私たちには回答する能力の無いご質問もございます。
 以下、回答となります。(回答の無いものは、私たちの能力では回答できないか、すぐには回答できないご質問です。お力になれず申し訳ございません。)

>靖国神社の合祀・分祀問題について、あくまでも神道教義の問題として下記の点について教えてください。
→以下の話は、神道の中でも神社神道を指すことをご承知おきください。ご承知の通り、神道(神社神道)は仏教やキリスト教といった創唱宗教とは全く性格が異なります。仏教やキリスト教が「ビリーフ(信仰・教義・抽象)」に重きを置いた宗教だとするならば、神道(神社神道)は「プラクティス(実践・慣行・具体)」に重きを置いた宗教と言えると思います。すなわち、神道(神社神道)にはドグマと言えるようなものは存在しません。また、神道では、「一社の故実」を重要視します。つまり、神道では、各々の神社に伝わる個別の改火(いわれを重視するのです。各々の神社には、各々の神社なりの理屈というものが存在します。ですから、「神道(の)教義」という大きな枠組み自体が曖昧模糊としており、すくなくとも、神社神道に関しては、「明確な教義は存在しない」とも言えるのではないかと思います。(教派神道などの教団神道は別です。明確な教義が存在します。)また、一般的に、神社人・神道人は、神道に関して、「教義」という言葉は使いません。

>「わたしの知りたいポイントは、要するに、「一つの座に合祀(合霊)している」「分祀は不可能」という靖国神社(松平宮司)の見解が、明治以降に靖国神社で生まれた独特のものなのか、それとも神道史上伝統をさかのぼることができるのかということです。
→合祀≠合霊です。合祀は今も昔もずっとやっています。合霊という曖昧な言葉を使うならば、解釈次第で神仏習合も十分『合霊』になります。靖國神社は祭祀の形態が統一されているのであって、246万余柱が一つの神様というわけではありません。ただし、神格として、靖國大神と一まとめにいうことは出来ると思われます。
 座の数と御魂の数が合わないという点に関しては、あの神とこの神があの世もしくはあの世との境目がない現世で一つの神に習合するという思想は、聞いたことがありません。ただし、民間レベルでは存在する可能性があります。

>・靖国神社では「護国の英霊二四六万六五三二柱」という言い方をする一方で「靖国大神」という言葉も使っている。
→「靖國大神」という言い方については、靖國神社に聞くべきかと存じます。民間の信仰としては何とでも言えるからです。

>・一度合祀された祭神が分けて祀られた例として、神田明神の平将門の例がある。
→神田明神は、「座」が2座あったのを、1座外したという形です。

>・靖国神社(招魂社)以前(つまり明治以前)に、このような「座が一つしかない」形の「合祀」はあったのでしょうか。
→具体例は細かすぎて分かりません。先述したように、神道は「一社の故実」を重視しますし、そういう地域信仰があってもおかしくないとは思われます。また、個人レベルになればいくらでも存在すると思われます。実証主義に則って調査・研究するのであれば、ご自分で調査されることをお勧めいたします。

>・このように「合祀された御霊をあとから分けることはできない」という教義の根拠(出典)はどこにあるのでしょうか。
→神道側の論理としては、「教義がないから分祀できない」ということだと思います。定められたこと以外のことは、たとえ宮司だとしてもいい加減に独断でできない。お祭りさせていただくものは生涯かけてお祭りする、ということに尽きる、ということだと思います。前述しましたとおり、仏教やキリスト教は「ビリーフ(信仰・教義・抽象)」に重きを置いた宗教ですが、神道は「プラクティス(実践・慣行・具体)」に重きを置いた宗教なのです。

>・故・松平永芳宮司は「靖国神社は他の神社とは異なり『座』が一つしかない」と述べており、靖国神社は特殊であることが明言されている。松平宮司の発言に見られる教義は、明治になってから生まれた招魂社→靖国神社・護国神社において初めて「創造」されたものではないか?
→教義というより政策であったと考えられます。ただし、政策の中に教化活動が存在しました。古道は古来より変わらないものとして探究する価値がありますが、一昔前の「政策」を探究したところで道にはなりえません。明治政府の失政で明らかなように、神道の教義を統一することは不可能だと思われます。

>・伯家神道、吉田神道、伊勢神道、復古神道等々、伝統的な神道各派の教義の中に、このような靖国神社の見解を裏打ちするようなものはあるだろうか?
→私どもの能力では個別事例を挙げることはできませんが、裏打ちするものはいくらでも出てくると思われます。なにしろ、中世以降のいわゆる「偽書」も含めて、神道の思想・文献は膨大な量が存在します。

>わたしの知りたいポイントは、要するに、「一つの座に合祀(合霊)している」「分祀は不可能」という靖国神社(松平宮司)の見解が、明治以降に靖国神社で生まれた独特のものなのか、それとも神道史上伝統をさかのぼることができるのかということです。
→遡ることはできると思われます。ただし、靖国神社の見解が、神道史上の伝統を意識した上での見解なのか、それとも「一社の故実」を重視した見解なのかまでは分かりかねますが……。

◎納得のいかない回答

残念ながら、私はこの回答には納得できなかった。
 「神道には教義がない」というのだが、たとえば吉田神道、度会神道、復古神道、伯家神道、山王一実神道など、明らかに教義を持つものは多い。もちろんドグマとしてすべての神社に貫かれている明確な教義が定められているか、キリスト教のように「これを信じる人が信者」という定義があるか、といえばかなり曖昧ではあるが、では神道とは何でもありかといえばそうではないだろう。
 そもそも靖国神社で「座は一つ」「分祀できない」と主張することこそ、それが靖国神社の教義であるということではないか。
 もちろん「一社の故実」を重視する(言い換えれば神社ごとにバラバラ)という事実は、たとえば作法などの部分において存在するだろう。ちなみに「一社の故実(いっしゃのこじつ)」とは、その神社の特殊な由緒、あるいは古儀により、明治以降継続して行なわれている事柄を指すという(『神社祭式同行事作法教本』)。「少なくとも明治以降」というのが、非常に新しさを感じさせるところではある。
 また、この回答では「調べればそういうのもあるんじゃないの?」というニュアンスが全体に漂っており、明確に「こうだ」というものではなかった。靖国の教義を裏付けるものも「あるんじゃないの?」程度の回答であるが、逆にもし明確にそういうものが存在するなら、靖国自身がそれを持ちだして呈示するはずである。ここでも、「たくさんあると思う」と言いながら、具体的な反例は一つも示されなかった。
 この回答で興味深かったのは、「そういうのもあるんじゃない?」と言いながら、「それは靖国の一社の故実かも、靖国に聞かないと」と主張される項目が多々あり、つまりそれは神道一般とは外れているという事実を逆に裏付けていることである。
 この回答を得て、私は「靖国神社の主張は、一般的な神道とはかけ離れているのではないか」という思いをさらに強めることとなった。

◎招魂社・靖国という「新しい宗教」

 別冊宝島『ニッポン人なら読んでおきたい靖国神社の本』なども読んだのだが、私の抱いている疑問の解決にはならなかった。
 そこで手にしたのが村上重義『天皇制国家と宗教』(講談社学術文庫)であった。この本には私が抱いていた疑問を確かに裏付ける記述が多く見られた。「第二章国家神道の確立と近代天皇制」の「5日清・日露戦争と靖国神社」がまさに該当する項目である。
 靖国に関する記述は「靖国神社は、近代天皇制下の創建神社の中でも、きわだった特異性をそなえた神社であった」から始まる。靖国神社は特殊なのである。
 靖国神社の前身は招魂社で、これも幕末、長州に始まった独特な存在だった。同書および村上重良『慰霊と招魂』(岩波新書)ならびに三土修平『靖国問題の原点』(日本評論社)の記述をもとに年代順にまとめると、靖国創建に至る流れは以下のとおりとなる。

○文久二年(一八六二年)十二月二十四日、津和野藩士の国学者・福羽美静(ふくばよししず)が京都霊山において私祭を行ない、安政の大獄以来の弾圧に斃れた志士たちの霊を祀る。招魂祭のはしり。
○慶応元年(一八六五年)、下関の桜山に桜山招魂場(現・桜山神社)が作られた。招魂場を発案したのは奇兵隊の創設者・高杉晋作である。社殿と鳥居があり、背後に戦没者等の共同墓地が設けられた。着工は前年(文久四年)。
○同年七月四日、長州藩では各郡に一か所ずつ招魂場を建設する布令が出された。長州藩では長州征伐(二度)と下関戦争で多数の藩兵が戦没したため、招魂祭がさかんに行なわれ、幕末には十六の招魂場があった。
○慶応四年(一八六八年)に戊辰戦争が始まる。四月、江戸開城。
○同年五月、新政府は京都東山の霊山(りょうざん)に招魂社を設ける。嘉永六年(一八五三年=ペリー来航)以来の尊王派「国事殉難者」と、鳥羽伏見の戦い以降の官軍戦没者の霊を祀った。
○同年六月、東征軍大総督府が江戸城で官軍戦没者のための大規模な招魂祭を営む。
○明治二年(一八六九年)、東京奠都にともなって、東京に招魂社を創建することが決まる。推進したのは、元・奇兵隊幹部で東征軍を指揮した大村益次郎(今の靖国神社に像がある)。六月に造営が始まり、十日で竣工。六月二十八日深夜に霊招式(招魂式)が行なわれ、戦没者三五八八名の霊を仮本殿に鎮祭した。
○同年八月、明治天皇は永世祭祀料として社領一万石をあたえる。
○明治五年(一八七二年)、神明造りの社殿が完成。
○明治七年(一八七四年)、鳥羽伏見戦争記念日の例大祭に明治天皇が行幸して参拝。
○明治八年(一八七五年)、勅旨により、京都東山の招魂社に祀られていた国事殉難者が東京の招魂社に合祀される。
○明治十二年(一八七九年)六月四日、社号を靖国神社と改め、別格官幣社(臣民を祭神とする神社に授けられる最高の社格)に列格される。
○明治二十八年(一八九五年)十二月十七日、日清戦争の戦没者を合祀する臨時大祭。合祀は直接の戦死者のみ一四九六名。
○明治三十一年(一八九八年)十一月五日、戦病死者一万一三八一名を特別合祀。
○明治三十八年(一九○五年)五月、日露戦争中にそれまでの戦没者三万○八八三名を合祀。
○日露戦争後、国レベルの靖国神社、府県レベルの招魂社(のち護国神社)、市町村レベルの忠魂碑というシステムが整備される。

つまり、靖国神社は長州の「招魂」の場として高杉晋作が原型を造り、大村益次郎が東京招魂社を建て、それが次第に巨大化していったということになる。

◎「招魂」は神道ではありえない

『天皇制国家と宗教』で特に興味深いのは、このような記述である。

 「招魂」という宗教観念は、自派、自軍の犠牲者や戦没者の霊を招いて、ねんごろに弔祭するもので、同志の者は、その霊前で、あとに続くことを誓った。招魂祭は、神儒仏の葬祭とは異なる新しい形式の祭りとして、幕末、楠公(楠木正成)崇拝と一体化して、尊王派の間に広がった。日本では、平安中期の十世紀以来、非業の死、異常な死をとげた者の霊が漂ったり害悪を及ぼすことを恐れて、これを手あつく祭って鎮める御霊(ごりょう)信仰のながい伝統があり、戦場でたおれた者は、敵味方の区別なく供養されるのがふつうであった。幕末にさかんになった招魂の観念は、御霊信仰の流れを受けてはいるが、敵と味方を死後も峻別し、味方のみを祭って、敵を一顧だにしないという点で、宗教観念としては、きわめて特異な、むしろ政治的軍事的次元の観念というべきものであった。(一六四~一六五ページ)

 「招魂祭は、神儒仏の葬祭とは異なる新しい形式の祭り」という部分を素直に受け取れば、招魂思想は神道・儒教・仏教のいずれとも異なる、いわば「新宗教」あるいは「独自信仰」の儀礼であったということになる。後に神社システムの一つとされたので神道のように思われるが、幕末に長州で生まれた新宗教であると認識するならば、それが一般的な神道とは大きくかけ離れたものであり、むしろ「神道ではない」と考えた方がよい理由が素直に理解できるように思われる。「一社の故実」どころか、新興宗教招魂教だったのだ。
 ところがこの長州から生まれた新宗教は、新政府による「国家神道」の一つの柱となっていった。調べてみればわかるが、この国家神道そのものが明治以前の神道とはかなり毛色の違う救えを多分に含んでおり、しかも靖国/招魂という新しい教えがそれを支える一助となっていたのでいる。

 また『慰霊と招魂』にはこのような記載もある。

 敵味方をともに弔祭する行為は、祟りを恐れるという切実な動機から発するものではあったが、同時に、日本人の心に人間の生命を尊び他者の死を愛惜する、ゆたかなヒューマニズムをはぐくむことになった。死んでしまえば敵も味方もない、という人間観は、支配者のために戦場に追いやられ、なんの恩怨もない敵を殺さねばならない民衆の生活感情に根ざした健康な感覚であり、原始社会に発する民俗宗教固有の排集団原理を超える契機を内包していた。
 幕末維新期の異常な内外の緊張状態のなかで生まれた招魂の思想は、御霊信仰の広大で奥深い民衆的基盤を背景としながらも、日本人の宗教的伝統はもとより、神道の伝統とも異質な観念へと展開し、明治維新直後の神道国教化の過程で固定化した。
 神道には、人間の霊魂に働きかけるタマフリ、フリタマ(振魂)、タマシヅメ(鎮魂)等の観念はあるが、各流派をつうじて「招魂」ということばは用いられなかったようである。その用例としては、陰陽道に「招魂の儀」があるのみであるが、それ以上に招魂の思想は、神道の伝統とかけ離れたきわめて特異な霊魂観に立っていた。幕末の政争で、尊攘派のみが国事殉難者として弔祭され、反対派の死者は一顧もされなかったのと同じく、内戦における「敵」の戦没者は、東京招魂社の鎮祭式の祝詞にいう「賊等」であり、のちの靖国神社への改称列格のさいの祭文にいう「内外の国の荒振寇等」でしかなかった。招魂の思想、靖国の思想では、天皇に敵対した者は、死後も未来永劫に「賊」であり、その霊を供養し弔祭することなどは思いもよらぬことであった。こういう特異な人間観、霊魂観は、日本人が歴史とともに内にはぐくんで来たヒューマニズムを破壊し去ったのみでなく、近代天皇制下の七○余年にわたって、日本国内の人間性を歪め、人類愛を敵視して、他民族、他国民とのあいだに人間としての共感を育てることを阻害するという、おそるべき役割を果すことになったのである。(五三~五五ページ)

 招魂社・靖国神社は幕末長州生まれの新宗教儀礼施設であって、神道でも何でもない。ましてや「日本古来の伝統」などではありえない。そう考えれば多くの迷が解けてくる。

◎それまでの伝統にない新しい祭祀

 三土修平『靖国問題の原点』(日本評論社)には以下のような記述がある。これもまた、靖国の特異性をよく示していると思われる。

 ……近世までにおいては、没後まもない人間が神社の神に祀られることは、怨みを残して敗死した者を祀る御霊信仰を除けば、通常は例のないことであった。
 神道国教化が唱道されたときも、大部分の神社は近世までの伝統で祀られ続けてきた神を祀るもので、それをいかに組織化するかだけが国の課題だった。
 これに対して靖国神社の起源となったのは、幕末の動乱の中で勤王の志士たちが行なった同志追悼の招魂祭であった。招魂祭とは、一八六二(文久二)年、福羽美静らが京都霊山において私祭を行い、安政の大獄以来の弾圧に斃れた志士たちの霊を祀ったことにさかのぼるというが、幕府権力への抵抗のシンボルとなっていた神道の様式で追悼の儀式を行い、倒幕への誓いを新たにしたのであろう。幕府側が権力を握っていたこの時点においては、これらの同志の霊は非命に斃れた少数派側の霊であるから、それを祀ることは御霊信仰の系譜につらなる要素をもっていた。
 が、薩長の「官軍」が江戸を制圧した直後の一八六八(慶応四)年六月に江戸城内大広間で行われた招魂祭となると、意味の転換が起こってくる。新政権の樹立へ向けて犠牲となった者を天皇の忠臣として祀り、敗死した「賊軍」の兵はたとえそれが怨霊となろうとも捨てて顧みないという態度を打ち出したのであるから、御霊信仰の伝統とは異なる新たな伝統の形成となってくる。招魂祭は、栄光に包まれた死者を顕彰することで、現世の権力側の価値観を宣揚する場となってくる。この新たな伝統の下に、翌一八六九(明治二)年六月、九段の地を選んで招魂場が創設され、味方の戦死者を死後まもない時点で神として祀り、以後永久にそこに留めるというかたちがさだめられた。

 死者を没後すぐに祀ることは御霊信仰以外にはなかったが、戦死者の怨みを鎮めるためではなく、むしろ「賊軍」をうち捨て、権力宣揚の手段として官軍の死者を顕彰するというのは、まさに招魂社・靖国の「独自教義」であると言っても過言ではない。

◎靖国神社思想は水戸学(朱子学)から生まれた

 ここまで見てくれば、もはや結論ははっきりしている。靖国神社は確かに国家神道の重要な一部ではあったが、幕末の長州藩や尊王攘夷派によって作り出された新興宗教であって、日本神道の伝統とはまったく呼べないということである。
 ではその特異な教義はどこから生まれてきたのか。小島毅『靖国史観――幕末維新という深淵』(ちくま新書)では、この死生観が儒教の一つ朱子学の理気論から生まれてきたと述べている。
 靖国神社に祀られている「天皇のために死んだ人たちの霊」は「英霊」と呼ばれている。だが、この語はもともと生死を問わず「すぐれた人」のことだった。それが「すぐれた人の霊魂」とか「死んだ人、特に戦死者の霊」という限定された用法になったきっかけは、藤田東湖の「追和文天祥正気歌」である。原文と、小島訳を併記しよう。

乃知人雖亡、英靈未嘗泯。
長在天地間、凛然敍彝倫。

このように当人は亡くなってしまっても、
その英霊はまだ滅んではいない。
天地の続くかぎり、
きらりと人倫を示している。

 この詩にみられる理気論(水戸学的な理解におけるもの)について、小島は以下のように解説している。

 天地(世界・宇宙)には唯一正しい道理(「理」)がある。これは場所が中国だろうが日本だろうが、宋代だろうが今(十九世紀)だろうが変わらない。人間世界の道理として根本にあるのが、君臣・父子・夫婦のあいだの差別的秩序=人倫である。
 したがって、臣下たる者は、自分の君主に絶対的誠を尽くし、いざというときには生命を捧げなナードならない。これは人たるものの「理」である。
一方、人は気によって構成され、生命活動を営しいる。若いころはその活動が活発で生命力にあふれているが、年をとるとともにしだいに衰え、やがて死ぬ。気は生命の原動力である。通常、人が死ぬと気は散じて天地(世界・宇宙)のなかに融け込んでいって、別のもの(生命体であると非生命体であるとを問わず)の気として再利用される。
 ところが、不慮の死(君主のための戦死もその一例)で亡くなった場合は、まだ生命力が充溢した状態であるため、気は散じない。とりわけ、君主に忠誠を尽くすほどの立派な人物の場合は、もともとすぐれた気によって構成されていた人なので、その気はばらばらにならず、そのままの形で残っている。
 われわれ生者は、理のために死んでいったすぐれた人たちに思いを馳せ、彼らを追悼することによってその人の気を頌え慰めなければならないし、そうすることによって当該人物の気は落ちつきどころを得るのである。
 以上が、私なりに理解している、水戸学者藤田東湖が考えていたであろう理気論による「英霊」観である。
 私たちはここに靖国神社の英霊祭祀の理論的根拠を見いだす。靖国神社が語源を東湖の詩に設定しているのは、まさしくこのためなのである。靖国の英霊とは、天皇のために戦死した人たちの「気」なのだ。
 ……(中略)哲学的・社会人類学的にでなく、歴史的に考察した場合、靖国神社とは、以上述べきたった水戸学的死生観・倫理観によって誕生した施設だということが許されよう。
 靖国問題を真摯に語る者のあいだではすでに常識化していることだが、日本古来の風習から自然発生的に生まれ育ってきた信仰形態では、断じてない。それを神道と呼ぶのは現在の宗教教理として自由だが、歴史学的には間違いである。靖国は特殊なのだ。(一三二~一三四ページ)

 ここで水戸学というキーワードが出てきた。実は、明治維新を牽引した近代思想の多くがこの水戸学(とその影響を受けた国学)にルーツを持つ。明治維新は水戸学思想と西洋思想の合体による社会革命といっても過言ではないと思っている(たとえば維新の志士たちが愛読した会沢正志斎『新論』は国体思想の出典として有名だが、会沢は天皇崇拝という一神教的思想をキリスト教から着想している)。これについては調査・研究を続けているところである。
 さて、このあたりで今回は結論を出しておこう。靖国神社の教義は、神道の伝統によるものではなく、朱子学の水戸学における受容(藤田東湖)を思想的背景として、神道的なスタイルで作り出された幕末の新興宗教である。であるから、その教義の端々に一般の神道と異なる部分が多いのも当然のことである。中曽根元首相の「昔のように、もっとおおらかな神道に帰ったらどうか」という発言はすでに引用したが、靖国神社は招魂社の時代から「もっとおおらかな神道」であったことさえなかったのだ。
 靖国神社が「A級戦犯の分祀はできない」と主張するとき、それは一新興宗教団体の教義としては理解されるが、神道的には何の裏付けもない独自教義ということになる。なお、その教義に対して、国がどう関わっていくかということは政治的な話なのでここでは触れることはしない。ただ、靖国の教義が「宗教ではなく日本古来の伝統」などという言説は完全に誤っていることだけは明らかだ。少なくとも明治以前において、靖国神社のような形式の追悼は、日本の伝統としてはありえなかったのである。

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