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天国へは「行けるうちに」-この世で地獄絵図描いている場合じゃない-

「死んだら天国も地獄もない」
というのは、
私の「個人的見解」ではあるのだけれど。

いや、それにしたって、
「天国」とか「地獄」とか、
誰かによって描かれているもの見ると、
あるいは、
自分でこれまで
思い浮かべられたものを振り返ると、
いかにも、
「人による、人らしい想像」
という感じが、
私はしてしまって。

「ここじゃない別の世界なのに
ここの世界を基準に描いてもなあ」
とか、
「とっても世俗的で、
人間社会そのものじゃないか。」
「『現世の人間世界』中心で
あの世を描きすぎじゃない?」
とか、
そういうふうにも、
私はどうしても考えてしまうのである。


――うーん。

私は、こう予測する。
(繰り返すが、あくまで一個人的に。)
(なので皆さんも、
個々でこれは予測して定義してください。)

「死んだら行く場所」が
もし仮にあるのだとしても。


「この世」ではなく
それは「あの世」なのだから。

天国とか地獄とか、
少なくとも
「我々この世の人間ごときが
想像できる範囲の様子では」
存在していないはず
だよな、と。

(そもそもどの世界だって
人間中心に作られているわけじゃない。
「人間による人間のための世界」
という感覚上での想像は、
「ただの勘違い」もその上甚だしい、
といった結果に終わるものだ。)

――そもそも、
「地獄」はともかく、
「私にとっての天国は
こういう天国らしい天国では
ないんだよなあ」
という人も
中にはいるかもしれないし。
(例えば「争い」が本当は大好き、とか?)


だから、私は思うのだ。

「あなたが行きたいその天国」
については、
今、この世界にしかない
、と。

つまり、
私達が想像できるような天国なんて、
この世にいるうちしか行けない
と思うのである。

だからこそ、
「この世で地獄絵図」など
描いている場合ではない
のだ。

――自分が不幸だからって、
他人を地獄絵図に巻き込もうとするな、
って話でもある。
(一例として、
某国の「首席エクソシスト」の画像を
ここで貼付してやろうかと思ったが、
……思いとどまりました。笑)
(自分が幸せを感じている時、
人は、他人を地獄に堕とそうとは
あまりしないものですよね。)
(この話は話でまた長くなるから
別記事に回すとします。笑)


(とはいえ、
「自分自身が」地獄へ行きたい!
なんてモノ好きは、
あんまりいないと思うから、)
ならば、現世を、
みんなで、
(それぞれで勝手に)
天国にしましょうよ!と。

つまり、
この世で天国に
「ちょいちょい行ってくる」つもりで、
つまり、
「天国に通う」ように
一人一人が生きてしてしまえば
良くないですか?
と。


――というか、
今、こんなふうに、
暢気に、好きなよ~に、
(私なんかは誰に頼まれてもないのに
自分で好きで勝手に、笑)
noteに記事書いて、
皆さんに読んでいただいたりなんかして、
これって私にとっては結構既に
「そこそこ天国」
じゃないかい?
(「天国」の「そこそこ」って何だよ。笑)

私にとっての天国とは。

まず、
自分で「自由に」選べる、
これこそが、
天国の条件
かなあ、と。
(選択肢自体は限られていたとしても
その中からは、ということ。)
(だって、選択肢なんて
どんなに用意しても、
人間は更に、
いや、どこまでも無限に、
「もっともっと」と
要求し出すでしょ?
――少なくとも私はたぶん
そうなりそうですね。笑)

そうすれば、
自分で選んでいるんだから、
不満は生じないはずだし?

それでも生じる不満があるとするなら、
それは「欲」というものなので、
「心身ともに元気」
という証でもあるわけだから、
(この話はどこか別記事で最近書いて
繰り返しになるので、
詳しくは割愛します。笑)
まあ、自分で辛くならないように
軽くあしらっておけばよろしいわけである。
(「仕方ないねえ~」とか
苦笑して言ってね。)

「欲が止まらない」。
――これもまた
「天国の一部」なのである。
(そうです、
「元気であること」が
何より大事な「天国」です。
笑)