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Wikipediaと「偶像」と

「著名人」(芸能人だけでなく)は全て、(自分の中では、ですが、)
ある種の「偶像」のように思えてしまう。

例えばWikipedea。
自分もそうなのだが、あの内容って基本的についついアテにしてしまうというかほとんど信じちゃう…けど、「間違い」もある訳だ。
オードリータンさんの本を読んでいて初めて知ったのだが、Wikipedeaって「記事について、本人や当事者・関係者は編集してはいけないことになっている」らしい。
(で、オードリーさんも「(自分のことについて)間違った記述があるが、ルールなので私は直さない。インタビュアーさんも当事者にあたるので直せない。」と。但し、その記事を読んだ読者が修正するのは別に構わないらしい。)
ここでWikipediaを例として出したのは
「その中のどれくらいがホントでどれくらいがマチガイだから」
という話をしたいわけではなくて、
そこに描かれたものをあたかも「本人そのもの」「本人と完全一致」と
ある意味「早合点」して、信じ切って、
自分たちは自分の認識を処理しているよね?
という「一つの例」として、伝わりやすいか?と思ったのです。

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もちろん、「その著名人」は、「実在」はしている。
けれど、御本人を直接知らない…のに、
よく知っている(ような気になっている)、
その時点である意味それは、
自分の頭の中で描き出しただけの「偶像」なんだよなー、
と、感じるのである。

中学生の理科で習う、レンズ越しに見える、
「虚像」というやつと同じであろう。

レンズを通して対象物は拡大されて見えるのである。
でもそれは、「虚像」であっても、
この現実世界の中で、実際の自分の目に映っているものであることには
やはり変わりはないのだ。

そう考えると、我々は、
子供の頃からたくさんの「偶像」「虚像」に囲まれているよなー、と。

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どちらも、実在する「対象物」があるからこそ
その「像」を結び出せるのは間違いないけど、
しかし、実在するばかりに、
ついつい、自分が認識しているそれが、
「虚像」「偶像」であることを、
すっかり私なんかは忘れていることも多い。

考えてみれば「著名人」ほどではないにせよ、
「その人の全て」を知っているわけではない以上、
誰もが他人の認識の中では「実像」として存在していない、ともいえる。
よく知っていても、「全て」ではないならば、それは同じことだろう。
そう考えれば、近親者ですら、
「実像」ではなく、「虚像」となるのである。

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更に言えば、この世のすべてのものについて、
その全容――裏も表も中身も、成分構成も、その歴史も、――を知っているものなど、そもそも一つもないのではないか。
「欠けている」と認識できる部分については、各自勝手に、「想像で」補填しているのだし、
また「その対象について、自分の認識の中に欠けている部分がある」と気づかないこともある。「思ってもみなかった」、人が相手なら「そんな人とは思わなかった」というやつである。
だから割とこの世界って、「現実」以上に、
人が頭の中で膨らましてしまっていることで構成されていることも
多いと思えるのだ。

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現実とは、想像、妄想のカタマリなのである。
どうせなら、またはそれならそれで、
楽しいほうへ、美しいほうへ、
この世の認識を膨らませていけたらいいのにね、って思ったりします。