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「善人」「悪人」と白黒二色に塗り分けられるわけなどない世界

「善人」「悪人」って、
人を白とか黒とかに塗り分けても、仕方ないんだろうなあ。

きっとそれほど悪気なく、でも結果的に
「途轍もない悪行」を、している人もいるだろう。

なるほど「人」を憎んでも
埒が明かないわけだよなー、と。


そもそも「悪行」って、
「ああ、自分、悪いことしている~!やめなきゃ~!」
って自覚しながらなされることって、
数としては案外少ない気もする。

また、「途轍もない悪行」だとしても、
している張本人は、
「これくらいは、ねえ?」とか、「仕方なく、…。」とか、
そういうふうに自分の気持ちを「処理」した上で、
悪いことをしている場合だって多いのではないか。


そして、「悪い行い」って、
それを行うのはもちろん「人」なわけだけど、
でも、その行いに繋がっていく、
その「背景」だって必ず何かしらはあるはず。

…で、あるにもかかわらず、結局、
「背景」というものは、人々の「イメージ」で
割と、どうとでも、後からでも、
「形づくる」こともできてしまうものだから、
その「背景イメージ」を支持するのが「多勢」になれば、
ただの「イメージ」が、ただの「イメージ」の分際で、
あたかも「現実」「真実」みたいな顔すらし始める。

だから、「善人」「悪人」って、
人自体を白とか黒とかに塗り分けても、仕方ないんだろうなあ。
「人」を憎んでも、埒が明かないわけだよなー、と、
――始めの話に戻ってしまうわけですが。(笑)


真っ白い服の汚れは目立つけど、
黒い服を着ていたら、目立たないわけです。
下手すれば、誰も気づかない、誰の目にもとまらないわけです。

まったく同じ汚れであったとしても。

「真っ白い服は好きではあっても、扱いが難しいから着ない。」
特に今はそういう時代という気もする。

「多少の汚れに寛容になって、好きな白い服を着る」
という選択はしづらくて、
「とにかく汚れていることにはしたくないので、
汚れが目立たない、なるべく濃い目の色の服を着る」
そういう空気感が蔓延している時代だとも思う。


――と、いうふうに、
「時代」という言い方をしている時は、
概ね、多少の「逃げ」が入っている時である。

自分の話ですよね、これはね。

ー私の敵は、私です。ー(中島みゆき「ファイト!」)