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「やって来るものごと」のほうは自分では選べないみたいだから

「この先」とか「将来」とか 「幸せになる」とか、そういうのは置いておいて。
「やって来るもの」は、良い事も悪い事も、勝手に来ればいい。
と、このごろ思うようになった。
もう仕方ないので「何が来てもかまわんわ!」と開き直った、ということである。

でも、何が来ようとも、今を、今日を、 「自力で」 明るく楽しくするのがいい。
――そういうものの捉え方のほうが、 「自分には」合っている気がする。

「自力で」とわざわざ書き足したのは、 何が「明るい」かというのは、人それぞれ違って当然であるからであり。
また、自分で「楽しむ」でないといけないと思うのは、そもそも、感情の中で自ら求めずして一番手に入りにくいのが、実は「楽しい」なのではないか――つまり、他力本願100%では、「楽しい」には実際なかなかならないのではないか―― なんて事も思うからであり。

結局のところ「楽しい」と感じられる時には、 たぶん心が(無意識にでも)先に 「楽しい」を「自ら」求めていないと、そうは感じられないのでは?と私は思うということであり。
――誰だって(いつもではないが、いずれは、) 「明るい」「楽しい」を 求めるほうに(本来なら)心は自然と回復し動いていくはずで、 ならばそれを無視して、この先の「どんより」のほうのことばっか考えてもね?っていう。

そんなことを考えている今日このごろの私である。