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「純然たる楽しみ」を取り戻せるなら

欲を満たす行為は、概して(大雑把に表すと)楽しいものである。

が、必ずしもそれがなくとも、つまり、欲を満たすことを介さずとも、「楽しい」は、生じ得るはずでもまたある。


そろそろ、食欲だの色欲だの物欲だの金銭欲だの自己顕示欲だのと無縁なところにある、そんな「楽しい」を、取り戻したい気が、(ごくごく個人的に)最近している。
(私は人として相当不器用なほうなので、結局は欲が絡んでくると、精神的にそれに「振り回される」感じになりがちだからである。)

そもそも欲とは、「生命力が姿を変えたもの」というように私は捉えているところもあるので、私はそれそのものを否定する気はまったくない。
ただ、私個人として、「さあ次!さあ次!」と、追われるように追いかけ続けるような、あるいは、いつも目まぐるしく新しいものを掴もうと手をマンガイラストのように振り回しているような、そんな自分のせわしない欲の感触に、そろそろ疲れてきた、という所がある……という、これはただそれだけの話なのかもしれない。(つまり、単なる私個人の人間性の話なのかもしれないです、今回は。笑)

早い話が、「一度落ち着いて、最高にのほほんとした、でも特にそこまで求めない時間を取り戻したい」気持ちが、最近の私の中にむくむくと生まれてきた、と、そういうことなのである。


幼少の頃は、そういう欲が絡んでこない「楽しい」のほうが、割合としてずっと多かった気がするし、そういうものに自ずと囲まれるようになっている毎日だった気もする。

例えば、一人でいても、美味しいものがなくとも、小遣いが底を尽きていても――「それならそれなりに」で――つまり、そこを何とか!なんてジタバタともグズグズともせず――すぐにパッと「その状況下・範囲内における最高の楽しい」を、見つけて、シンプルにそこにその都度飛びついていたような気がする。

そう、幼少の頃の自分は、「何事に対してもあまり考えていなかった」というだけのことなのかもしれない。
――言い換えると、大人になってからの私と私のその「欲」は、「執拗な計算」言うなれば「固執」を生じさせて、その時どきで自ら心の柔軟さ自然さを奪ってしまっていた気がする。


固執しない、もっと自由でもっとおおらかな「楽しい」――そんな感覚を、今、私は取り戻したくて仕方がないのだ。

(と、ここで話を終おうかと思ったが、もう少しだけ拡げる。)

ちょっと前までは、「書くこと」も、どこか自己顕示欲の道具にしようとしていたところが、私にはあったかもしれない。
――大した腕前もないくせに(笑)、それでも数少ない「自分の中では比較的得意なほうのジャンル」だったので、「自己顕示欲」を満たしたいならこれを使うしかなかった、とも言えるだろうか。

でも、そういう「自己顕示欲」は、ここからは意識的に抜いていきたいのである。

もっと、何なら「100%」(それができるかわからないけど目指すところとして)の、純粋に「好きだから」という動機だけで、そして「書くのはやはり楽しい」というその衝動だけで、文章をしたためることができないだろうか?と、ここのところの私はそんなことを思いながら書いている。

(と、言いつつ、なかなかそんな急には変われないかもしれないけれども、笑)(しかし、)少しずつでも、そういった方向に進んでいきたい、そして、もはや「自分という人間・その精神」ごと、そちらに引っ張っていきたい、そんな気持ちが自分の中に生じたのはまごうことなき事実であり。

そしてその結果として、自分にとっての「書くこと」、ひいては、そんな自分が「書くもの」は、どう変わっていくだろう?
――と、新鮮な気持ちで今、「この先の自分」と「そいつが書くもの」を、また楽しみにも思い始めているところなのである。