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ラジオの公共圏

(ひとりでにコラム第2回)

最近、ラジオを聴くようになっています。

学生の頃は、ラジオをそれなりに聴いていました。
もともと、小さい時から夜寝るときはCDやカセットテープを聴きながら寝ることがあったのですが、小学校高学年くらいから中高生を対象にした音楽番組を聴くようになりました。家族で見るテレビとはまた違う、ささやかでひそやかな楽しみだったことを今もよく覚えています。

大学生になって一人暮らしを始めてからも、最初の2年ほどは家にテレビがなかったので、ラジオの音楽番組を聴いて生活していました。
しばしばリクエストやメッセージを送って、自分がリクエストした曲が流れた時は、自分の音楽プレイヤーで聴くのとは一味違う、特別な気分で聴いたものですし、特集番組で好きなバンドのメンバーと生電話をしたときは震えました。

逆に、他のリスナーさんがリクエストした曲を聴いて興味を持ち、そこから知ったアーティストも少なからずいます。
また、自分の好きなバンドの曲をリクエストする人がいると、なんとなく、仲間がいるような嬉しい気持ちになりました。

その後、家にテレビを置くようになってからはラジオから少し遠ざかっていたのですが、現在の家に越してきたときに再びテレビを置かなくなったため、最近またラジオを聴くようになりました。ただ、それまでと違い、音楽番組以外も聴くようになりました。特に、最近は深夜や朝方の、お笑い芸人がパーソナリティを務めるラジオを聴くようになっています。

だいたいお笑い芸人のラジオというのは、時事ネタや独特なコーナーなど、トークがメインになるものですが、さすが喋ることを仕事にしている方々、聴いていても飽きることがありません。
音楽番組では、アナウンサーやラジオパーソナリティの方が生放送で軽やかに進行をされることが多いのですが、トークが主になってくる番組は収録されているものも多くちょっと癖のある感じになります。毎週、ハガキ職人(今はメール職人とかいうのでしょうか)の皆さんのメッセージやネタを介してのやり取りも面白いです。

ちょっと唐突ですが、私はこのラジオという形式に、昔のインターネットが目指していたものがあるのではないか、とふと最近思っています。

たとえば、音楽番組の、他者のリクエストやゲストアーティストの登場で初めて聴く音楽には、自分が今まで知らなかった新しいものとの出会いがあります。それに、うまい文章が書けなくたって音楽が好きであれば、リクエスト一通で他の人と繋がることができます。

たとえば、たいていの深夜のラジオ番組では会ったことも話したことも無い、顔も本名も知らないけれど、ラジオ上ではよく覚えている「有名人」的なハガキ職人がいます。また、パーソナリティとリスナーやリスナー同士はその場の人しかわからない「独特なノリ」の文脈を共有していたりします。

それに、あまりにもルールやマナーから外れたメッセージは、当然採用されません。もしくは公開お説教されたりします(深夜のラジオでたまにありますね)。

そこでは、パーソナリティ(そして後ろにはラジオ局のスタッフさん)の存在が、その場を安心できるものにしています。いわば、ゆるやかながらその場のルールができあがっていわけのです。最低限のルールを持ちながら、自分たちのノリを楽しめる空間。

また、ラジオには時間の制限、すなわち「いつ聴いているか」という限定があります。

ラジオはテレビと同じく、基本的には一律の時間帯で放送されますから、聴いている間には「少なからず時間を共有している誰か」がいるわけです。
もちろん最近はradikoのタイムフリー・エリアフリー機能やアーカイブをアップロードしている番組もあるでしょうから、他の時間帯や場所で聴いているリスナーも多数います。

しかし、あくまで「この番組はいつ、どこで放送されているか」という前提があり、またその前提に合わせた語り口があります。例えば朝の番組ではニュースや天気予報が入っているとか、深夜の番組だとちょっと下ネタが入っているとか。FMラジオみたいにエリアが制限されていると、その土地の気候の話をしているとか、言葉の違いとか。そういう、ささやかな文脈を共有しています。
で、違う時間帯に番組を聴いているリスナーも「あぁ、これを他の人は深夜に聴いているのかな」なんていうことを想像したり。


そして何より、ラジオは「聴くだけでいい」のです。別にメッセージを送らなくても、他のことをしていても、聴くだけで、ラジオに参加できるのです。逆に、他の人の参加の仕方も、さして気になりません。例えばハガキ職人のメッセージが読まれなくても、それがメッセージを出さなかったのか、採用されなかったのかは一目には分かりません。

「発信」が重視されて、「何かを言わないといけない」気がしてしまいがちな今の世の中で、こんなに「受動的に能動的でいられる」、しかし多くの人に開かれているメディアもなかなかないかもしれません。

で、そういうゆるやかなつながりや、参加を強制されない安心感、そして他者(ほかのリスナーやパーソナリティ、スタッフさん)に想像をめぐらすという、ラジオの魅力って、実は黎明期のインターネットが目指したものだったのではないだろうか、となんとなく思っています。

誰とでも繋がれる、でも繋がることが自由な世界。繋がらなくてもよくて、「何か」を言わなくても良い世界。「聴いているだけ」でも十分に参加している空間。その向こうにいる人がどんな人なのだろうとワクワクする世界。

人々がインターネットに求めていた、コミュニケーションの可能性の原型。それに近いものを、ときどきラジオに「見たり」します。

(第2回おわり)


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