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国際比較でみた子どもの様子

●仲の良い友だちの数。

●「友人や仲間といる時が充実している」と感じる、と答える子の数。

●友人との関係について満足を感じているか。

●学校に通う意義は「ともだちと友情をはぐくむことにある」と答える子の数。


 これがすべて最下位。もっとも少ないのが日本のこどもだ、ということです。

 内閣府の「我が国と諸外国の若者の意識に関する調査 平成30年(2018年)度」の統計による数値です。日本、韓国、米国、イギリス、ドイツ、フランス、スウエーデンの7か国を比べた結果です。13-29歳の男女各国1,000名に対して実施した調査ですから、それなりに信用できる数値だと思われます。

そして、

●「人は信用できないと思う」というのが自分に当てはまると思う子の数

は上から3番目に多い。

 これが、客観的に見たときの日本の子供たちの友だち関係だ、というわけです。世界の中で同じように豊かな先進国のなかでも、友だちにめぐまれず、友だちがすくなく、満足できない、…その結果、「人は信用できない」と思いがちなのが、日本の子どもだ、というわけです。


 けれど

●悩みや心配事は「友人や仲間のこと」という子の数

は中位です。

 それはまだましだった、と受け取れるかもしれません。だけど、もしかしたら、友だちが少ないと、悩むことも少ない、ということになっているだけなのかもしれません。


 いやいや、けれど、

●悩み事や相談相手は近所や学校の友だちだ、という子の数

は各国中、最多です。相談相手は、やっぱり友だちなのです。けれどこれは、他の国では相談相手に兄弟や家族をあげる比率が高いということですから、その分、友だちに頼らざるを得ないという悲しい数字だとも解釈できます。

 これをどう受け取ったらいいのでしょう。子供たちの世界は、これから大人になっていくとそれがそのまま大人の世界にもちこまれる世界の感じ方ではないのか、と考えると、この国の先行きはとても心配になります。また、子どもたちの世界のありさまは、大人たちの世界の影響を受け、あるいは圧迫を受けたその結果であって、子どもたち自体が選んでそうしているわけではない、という言説に説得力を感じる私としては、こういう社会を作ってしまっている大人、自分の責任を感じます。

 私たち日本人の大人はとても子どもを大事にしている、とのんびり肯定的に考えていたところがあります。多くの大人が子供のために、と、いろんなことより優先して動く国だ、と思っていたのに、こうして客観的な統計数値は、その認識を修正しなさい、とつきつけているのは確かです。子どもが友だちに恵まれていない国、日本。

 大人たちはこの状況をどうにかするように考え、動くことが必要なのだ、と認識しないといけません。

 しかし、暗く落ち込んでしまうだけでいいとは思えません。まずは、客観的にそうなんだ、だとしたら…と思考を次に進めるためにもっておきたい認識だ、と受け止めるのがさきだ、と私は思っています。つまり、相談室で悩み、病む子どもたちを見ている私としては、「全般的にそういう傾向のある世界の中に子どもは生きているのだから」と理解の補助線にすることができる、と。悩み、病む子どもは、この厳しい環境の中でももっとも繊細なグループにいて、敏感に状況に反応している、ということでもあります。目の前にいるこの子だけの特徴だ、と考えるのは粗雑なのじゃないか、と。

 むしろその子と接触する大人の一員としては、思い切ってむしろ逆に「こんなふうに反応するほうがむしろあたりまえかもね」くらいの開き直った思考でもいいのかもしれません。統計は、その思考に一つ根拠をくれたのです。あなたが悪いのじゃない。世界はもっとあなたに友だちをたくさん与えるべきなのだ。満足がふつうにもっとたくさん降り注ぐのが世界だったはずなのだ。少なくともほかの国に暮らす子供たちにはもっと明るく楽しい陽光がふりそそいでいるのだから。

 いやいや、そんな慰め合っているだけではちっとも前に進めないではないか、その厳しい日本の環境の中でもどうにか前に進むための力をつけなければ、と叱る大人の声も聞こえてきそうです。けれど、私は、「まず認める」という作業が、前に進むためには必要だと思うのです。「まず闘う」のではなく、「まず認める」。まず肯定してみよう。否定の雨は、不登校や、いじめの被害にあうと、求めてもいないのに降り注いできます。他者から否定される、というより、自分の中から降り注ぐのです。それは、自分の中に、きちんと周囲の社会の価値観がとりこまれているからです。大人や、周囲の人がことさらに否定をしなくても、もうはじめからことが起こり始めたら子どもは内面で自己否定を始めています。その自己否定の雨が、子どもから動く力をうばうのです。

 世界は、どうやら、どこでもこんなふうだ、ということではないらしい。これは、私のせいだとも言えないらしい。……そういう自己肯定の根拠に、少しはしてもいい。そういうお話じゃないかと思うのです。

 そして、思い切って言えば、私たち大人が、この日本の様子を変えるぞ、という立場にたてば、それを本気で考え始めたら、そのとき、近くにいる子どもがその大人から受け取る空気は違っているのじゃないか、と想像します。……少なくとも、この大人はぼくのために動いてくれるんだ。……言葉にはしてくれないけれど、子どもがそう受け取れるようにしてあげたいものだと私は思います。子どもは思っているより敏感で、近くにいる大人の考え方を察知します。私にはそう見えて仕方ありません。

 この世界は厳しく、この世界に負けてはならず、この世界を甘く見ないで闘いをつづけないと負け犬になるのだ、と懸命に必死で生きている大人たち。そのおいつめられた日々が、子どもには環境になります。いや、闘うのをやめよう、と言っているのではありません。ただ、闘う意識ばかり強い大人が、知らず知らずのうちに子どもに世界をそういうふうに見せているところがあるのじゃないか、と少し考えてみることを提案したいのです。

 だけどショックをうける統計数値です。

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