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「学校へ行く」のは生きるためには唯一絶対の正解だろうか。(後編)

 今、ウクライナの人々がたいへんな目にあっています。そんなときに、日本の子供が学校に行くのいかないの、という話は小さいと思われるかもしれません。だけど私はそうは思いません。こんな事態になると「世界は武力、実力、ちからがすべて」という狭い偏った考え方に流されそうになりますが、ひとが、ひとつひとつの「生」を大切に考え、扱うことが、そのまま、戦争を防ぐ確実な力になると思うのです。そのためにも、私は考え続けたいと思います。前回の続き、後編を書きます。


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 「学校に行かないと、人生自体が終わり」?「人生、レールから踏み外れたらもうまともな結婚も就職も無理。」「おとなになったら競争はもっと厳しい。子供時代のこれくらいのことに負けていたらおとなになったら会社が続かない。社会に出られなくなる」「つらいことには耐える癖をつけないと。乗り越える練習になるから、これはむしろ頑張って乗り越えるチャンスだ。」


 私は、これらのことばに対して、ひとつひとつ、反論があります。

 これらのことばは、学校を肯定するばかりです。それでは、社会の半分の面しか見ていないことになります。

 学校社会では得られない学びのほうこそ人生を豊かにする、ということをいまや、多くの人は語っています。

 多様な思想がある、というのは例えばこの問題についても、そうなんです。

 だけど子供はどうしても広い世界に出る前の存在です。たまたま生れついた親がそういう考えを知らなかったり、近所のおじさんにそういう人がいなかったりすると、たどりつけません。たとえば、遠い書物の世界にいる人のことなどにはたどりつけないのです。


 学校にいけない子供を持つ、ということは、私は親のその人が個人として、思想を広げるチャンスだと思うのです。多様なものの考え方をもってよ、とその子供が要求している、と理解するのはどうでしょうか。

 世間の多数派の考え方に必死によりそって適応を頑張ってきたお父さん、お母さんはすばらしい勝者でしょう。その勝利のプロセスで、かちとってきたいくつもの教訓、達成感、人生の教え、はもちろん大切な価値あるものです。ですが、その子は、違う世界の広がりを、親に見せようとしている、と受け取ってみてはどうでしょう。


 学校がなくても、学校に行かなくても、社会で生きていける。学校イコール社会、ではない。学校に頼らなくても自立する道がこの世界にはある。

 私個人としては、学校社会が閉塞しているのが現代だと思っています。今まで有効に働いてきた学校のシステムが機能不全に近づいている結果、日本の諸外国と比べた若者、子どもたちの精神の健康はひどく悪化してきている。学習効果の低下も、国際学力比較の結果が示しています。不登校、登校しぶりのこどもたちは、いまや在籍数の十パーセントを超えています。そんな高い確率で行けない子供を増やしてしまうのが今の学校の実際です。そうした制度の前で、子どものせいだけを言うほうが、不自然だと私は思っています。

 この社会をどうしたらいいんだろうか。社会自体が曲がり角に来ているこの日本で、親が、その思考を問われているのが、不登校の問題だと思います。

 私は、希望を持っています。子供たちが学校に行かない、というのは、学校以外の成長の場を獲得するチャンスでもあります。たくましい大人になるためのルートは、今や一つではないのです。たくましい大人、とは、自己肯定感を高く持てて、将来に希望がたくさんもてて、目の前になにかピンチが来ても明るい気持ちで乗り越えられるさ、と希望を捨てずに問題にたちむかっていける、そういう大人のことだと思います。

 国際学力比較で重視されるようになっている「問題解決能力」という能力がそれです。それを育てるための大切な時期が、子供時代だ、と世界の教育界は考えているのです。「科目の学力を育てる」のが最重要ではない。「問題解決の力」を高めるのが子供時代だ、と。その重要な一要素が「自己肯定感」です。自分はできる、自分はすばらしい、という感覚を、どうかあたためてあげるようにしてほしいと思います。親に、教師に、医師に、周囲の人に、それを最優先するように、してあげてほしい。これが私の願いです。そして、自分の仕事はそれだ、と考えています。



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