「藪原まつりと下獅子」まとめ

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「藪原まつりと下獅子」まとめ

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<藪原まつり「藪原神社例大祭」とは?>
長野県木曽郡木祖村 藪原 を舞台に行われている毎年恒例の伝統行事。
薮原神社例大祭 開催日は、毎年7月の第2週金・土曜日。
女獅子(赤頭の下獅子)、男獅子(緑頭の上獅子)の山車(だし)が出て、豪壮、華麗な獅子舞を行う。
みどころは、本祭り午後9時頃から行われる上獅子屋台・下獅子屋台・御輿がそれぞれすれ違う時にお互いの舞を披露し合う「寄合(よけあい)」。この上下獅子の競演は両日、3回ずつ行われる。
金曜日は宵祭り。獅子屋台が薮原の宿場内を曳行し、寄合や各家々の前で舞い、悪魔退散を願う。
土曜日は本祭りとなり、渡御祭に続き、神輿と獅子屋台が宿場内を巡行する。


<藪原まつりの起源>
まつりの起源は大変古く、正確な時期ははっきりとわかっていない。
1511年(室町?) 小木曽から藪原へ 神座を神輿でお移しした時が始まりか?
1757年 (宝暦7年)『木曽志略』の中の「熊野権現祠祭礼6月15日」が、初の記録とされている。
1842年(天保12年)藪原風土記『岨俗一隅』(宮田敏 著)には「6月14日、6月15日の行事」として記されている。
この『岨俗一隅』には、まつりに関することが図絵とともに詳細に記録されており、文化年間(1804〜1817年)には立派な行事として形づけられ、成立していることがわかる。

<藪原まつりの目的>
疫病退散が目的。
古老の話によると、昔藪原に疫病が流行して日に数人の人たちが死んでいった。この様子では、一年も経たずして氏子(うじこ…同じ地域に住み、その地の氏神を信仰する人たちのこと)全体が死に絶える。これはきっと氏神様のおとがめに違いない、それには悪魔退散に獅子を出して町内のお祓いをいし、神様にも町内にお出ましを願って御守護を賜ろうではないか。ということで始まったとされている。

<藪原神社の歴史>
藪原神社は長野県木曽郡木祖村に鎮座している神社で、中山道(木曽路)の宿場町である藪原宿の鎮守として信仰されてきた。
日本では、「八百万の神」=自然のものすべてに神が宿っているという森羅万象を信仰の対象とする古来からの考え方が根付いている。
藪原神社も、その昔(今から1340年くらい前の飛鳥時代)に、熊野本宮大社(紀伊の国 和歌山〜三重県、自然信仰の聖地である熊野三山に祀られている、日本で非常に古くから信仰されている神様)の神々を、県坂頂峰(現在の鉢盛山?)に祀ったのが始まりとされていて、その頃は「熊野社」と称されていた。そこから、鎌倉時代に十王(じゅうわう)へ遷座し「熊野大権現」、戦国時代に現在の地に再遷座、江戸時代には白川家宣旨により「熊野大神宮」と呼ばれるように、明治時代の神仏分離令を受け現社号「藪原神社」と改められている。

さらに詳しく↓
藪原神社の創建は天武9年(680)三野王(美濃王)が勅使として信濃国巡視を行った際、熊野本宮大社(和歌山県田辺市本宮町本宮)の分霊を勧請したのが始まりと伝えられています。三野王は美濃王ととも呼ばれ壬申の乱(672年)で大功があり天武天皇の皇親政治に重きを成し、「日本書紀」の編纂にも携わった人物で、記録によると天武天皇13年(684)に采女筑羅とともに信濃国(現在の長野県)の地形の調査の為に遣わされ、都に帰還後、信濃国の図を作成し提出した事が実績として残されている事から、年代に多少の誤差が生じているものの、この間に藪原神社を創建したのかも知れません(木曽地方は当時、美濃国に属していた事から、社伝通り680年に創建したとも考えられます)。
当初は熊野社と称して縣坂頂峯に鎮座していましたが、鎌倉時代に入った建久3年(1192)に縣坂南効(十王)へ遷座、熊野大権現と呼ばれるようになり、戦国時代の永正8年(1511)に現在地に再遷座し、江戸時代には白川家の宣旨により熊野大神宮と呼ばれるようになっています。明治時代初頭に発令された神仏分離令を受けて仏教色が一掃され明治4年(1871)に現在の社号である「藪原神社」に改めています。境内に設けられている案内板によると「 この本殿は、三間社流造 軒唐破風付 屋根はこけら葺である。文政10年(1827)諏訪の工匠2代立川和四郎冨昌の作で向拝を始め随所に華麗な彫刻が多く特に万寿頭の宝づくしと呼ぶ金嚢などの彫刻は立川流のなかでもあまり例をみないものである。」とあります。
現在の藪原神社本殿(附取外し鬼板1面)は文政10年(1827)に諏訪出身の名工として知られる2代立川和四郎冨昌が造営したもので木造平屋建て、三間社流造、こけら葺、桁行3.27m、梁間1.85m、正面軒唐破風付、江戸時代後期の社殿建築の特徴の1つである精緻な彫刻が向拝の桁や木鼻、蝦虹梁などに数多く施され、拝殿兼覆い屋(切妻、銅板葺、平入、正面入母屋向拝付、間口4間、奥行7間)内部に納まっています。藪原神社本殿は江戸時代後期の神社本殿建築の遺構で意匠、技術的にも優れている事から取外し鬼板1面と共に昭和61年(1986)に木祖村指定有形文化財に指定されています。例祭は毎年7月中旬の土日の2日間、例祭の発生起源は不詳ですが、江戸時代中期の宝暦7年(1757)に編纂された「吉蘇志略」に例祭が行われていたと思われる記載がある事から少なくともこれ以前からと推察されます(享保年間:1716~1735年に三河から伝わったとも?)。又、境内には明治41年(1908年)11月に建立された松尾芭蕉の「杜かけに ワれらもきくや 郭公」の句碑があります(正式な芭蕉の句ではないようです)。


<藪原まつり全体の流れ>
毎年7月の第2週金・土曜日に開催される二日間のお祭り。
金曜日は宵祭り(前夜祭)と呼ばれ、
藪原神社で「天狗の舞」と
      巫女の会 舞姫たちによる「豊栄舞」「浦安舞」「熊野舞」3つの舞が奉納される。
その後、獅子屋台が薮原の宿場内を曳行し、寄合や各家々の前で舞い、悪魔退散を願う。

土曜日は本祭りとなり、渡御祭に続き、神輿と獅子屋台が宿場内を巡行する。

さらに詳しく↓
「天狗の舞」…天照大神の出御を願う、悪魔払いの舞。敬神会の皆さん(伶人)により、笛や太鼓を使用する楽が奏でられる。(四方拝、天地人、隅切り)

村で選ばれた小4〜中2女子の巫女たちによって舞われる舞姫
「豊栄舞」…自然の恵みの感謝と喜びを表現。
  (歌詞) 一、あけのくもわけ うららととよさか
         昇る朝日子を 神のみかげと拝めば
         その日その日の 尊しや
       二、つちにこぼれし 草の家は
         芽生えて伸びて 美しく
                                春秋飾る 花見れば
         神の恵みの 尊しや

「熊野舞」… 薮原オリジナル 白扇を両手に持ち、二節目は鈴を奉持して舞う。新線の山里に遊ぶ蝶を型とり、楽しく舞う。鈴に持ち替えて四囲の山頂の美を表現し、清々しい心で喜びを表現。
   (歌詞) このさとの さかえもうれしい うぶすなの
       かみのめぐみぞ いやぶかくして いやぶかくして

「浦安舞」…初めに桧扇を持ち、二節目は鈴に持ち替え舞う。永久に平和な世の中であるよう祈願。
   (歌詞) 天地の神にぞ 祈る朝なぎの
       海のごとくに 波たたぬ世を

舞と踊の系統異…舞の動作は神の所作として神の身振りが多く、神の恵みを施す㒭術に発している。豊栄、熊野、浦安舞は神の所作というより、神を拝む舞踊的所作である。


<薮原宿について>
1533年(天文2年)戦国時代に木曽義昌が 木曽11宿を定めた頃より宿として利用されてきた。
その後、江戸幕府により、慶長6年(1601年)中山道六十九宿の一宿となり、尾張藩に属する。
薮原宿は近年建物の改修が進み当時の面影が失われつつありますが、現在もなお防火用高塀の石垣など、往時の町並みが残されている。
薮原宿は昔から櫛の生産が盛んでしたが、現在では少数の人々によって生産が伝えられ、お六櫛の里として全国に知られています。
中山道 第35宿 薮原宿について詳しく
http://home.b05.itscom.net/kaidou/nakasendo/4nagano2/35yabuhara.html

<お祭りの準備>
家庭では、毎年祭りの時期に合わせて、障子の張替えや晴れ着のカスリ着物や浴衣の準備をおこなう。
軒先にはウメ鉢と鳩八を型どった御神燈が置かれる。

また「家習い」といって祭り前になると、獅子舞の稽古が行われる。
獅子舞の頭を担えるようになるタイミングが、社会的成人式、つまり一人前になった証とされていた。
前夜祭の宵祭りの日には、薮原神社の舞屋で家習い(稽古)が行われる。
江戸時代には、裕福な家庭の子弟が歌舞伎、狂言、にわかを習える風習があったが、時代の変化とともに形態が変わり、身分に関係なく一般の村民が伝統を受け継ぐ対象となっていった。

<薮原祭り 下獅子の起源>
大阪市大の教授が縄文時代土器の分布調査で薮原を訪れた際、下獅子の赤頭を見て、「これは熊野豪族の勇敢で武力的にも、経済的にも、秀れており、南方漂流民族といわれるだけ海・川など水に強く、この木曽川上流まで文化とともに川を上ってきたのでしょう」とおっしゃったそう。
また、「屋台」は福島宿の新井新兵衛により寄贈され、「山車」は京都から祭礼用に男どもが担いで運んできたそう。
さらに、勝沢探水という京都で医術を習得した医師が、祇園系の囃子を伝えた。
→みんな西方面から伝わってきている!
これはそもそも、日本のルーツが大和国、今の四国?九州?淡路島?など西から始まっていることに関係している?


<そもそも獅子舞のルーツとは?>
・もともとは東アジア、東南アジアの伝統芸能。発祥諸説あり。
・1世紀ごろ 中国(武漢)に伝わる
ーーー
・日本では、奈良時代 唐王朝に伝わる?
・推古天皇20年(612年)に中国から日本に伝わった「伎楽」の中に獅子舞らしき、「師子」という記録がみつかっている。
・16世紀初期、伊勢国で、飢饉や疫病除けのために、獅子頭をつくり、正月に舞った記録あり。
・17世紀には、伊勢から江戸へと渡り、悪魔を祓い、世を祝う縁起物として全国に定着していった。

全国に分布している獅子舞も多種多様
西日本=伎楽系(囃子とともに舞う)
関東・東北=風流系

・群馬県甘楽での伝承→獅子はインドで人を食べて生きていた。大和の国の神が狐を遣わし、「大和では人を食べる代わりに悪魔を退治すれば、食べ物を与えられ悪魔祓いの神として崇められる」と伝え、狐が先導役になった。


<薮原祭りの今>
社会の急激な変化により、祭りの継承が難しくなってきている。郷土民族としてお祭り文化を冷静に見つめる余裕もなく、人々は日常に追われている。ライフスタイルの変化により、生活水準向上のための労働時間の増加がみられ、祭りの準備や練習になかなか時間を割けない。また、家庭の主婦まで町工場等で労働しているのだから、早朝から笛の練習などできん、というような声も。そのような忙しない現代社会だからこそ、美しく格調のある優雅な芸能と遺産が必要なのではないか、と本著者は語る。


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