【仕事編・学童保育指導員】 0ポイントと出会う旅
他の人は「自分は何をすべきかわかっている」「そうしているのが当たり前すぎてなにも疑問がない」みたいな中に
一人わたしだけが「何をすべきかわかっていない」「当たり前に居られることはないから常にどうしたらいいかに迫られている」
という夢をたまに見る。
今朝の夢は、あるイベント会場で、わたしは楽しもうとしているが、なにをすべきかわからなくて、そういえばイベントのボランティアだったのではないか、と途中で気が付き
一緒に行っていたはずの人たちはそれぞれが参加者としてイベントのあちこちを見たり体験したりしている。
わたしはイベント開催側だったことに気がついたのに、内容について何も知らない。
開催側として提供する喜びを味わうことができず、
参加者として純粋にイベントを楽しむこともできず、
どこにもハマれないで浮いている、
その場のどの人とも共有できていない立ち位置で
心もとない。
そんな心もとない自分という存在が、人にバレるのが怖い。
どう平気につくろっていたらいいかわからないで落ち着かない。
気がつけば、わたし以外は当たり前にその場に居られているし、
楽しくても、つまらなくても、それなりでも、
とにかくその場に居られていてその場に居る自分と齟齬がないように見える。
わたしは「なんで来たんだろう」「なんで平気なフリをしようとしてるのだろう」「なぜわたし以外の人は平気なんだろう」と
思いながら惨めな気持ちになっている。
地元の児童館を借りてやっている学童保育が、指導員を募集していた。
わたしは保育の免許を持ってなかったが、そういえば、保育士になろうと考えて教材を揃えたことがあった。
単純な理由で、大人の社会に自分はフィットしないのではないか、と気がついていて、もしかしたら子どもと一緒にだったら居られるのではないか、という短絡的な希望をもったからだ。
今から思えば、保育士の方々に失礼だ。
子どもにも失礼だ。
自分が居られるために、保育士だったら、なんて。
アホだ。笑って許してください。
しかし、転職に挫けて、どうにか次の就労をしようと考えていたとき、学童保育の指導員は、なにか、わたしには希望に見えた。
まっさらな気持ちで、挑んでみよう、と思った。
出勤初日
たしか、夏休みだったのだろうか。
建物の外、小さな庭のような場所で子どもたちがなにか作っている。
小学校1年生〜4年生までの、15人くらいだったろうか。
それはすごかった。
なにが?
子どものエネルギーが。
解き放たれているときの子どものエネルギーって、自分が大人になってしまっていると失くしてしまってすっかり忘れているけれど、すさまじい。
声からも、動きも、速さも、混沌さも、枠がなくてどこまでも広がっていきそうな。
一個一個の個体、人が、こんなにバラバラなのだ、と。
一瞬で知らされているようで、わたしは身動きできなかった。
先輩指導員は、初日のわたしにかまけるより、子どもたちに対応していた。
たぶん、慣れていくしかない、という、無言のいざないだったのだろう。
だけどわたしは入る隙間も見つけられずデクの棒のようだった。
あっちでギャっと声がすれば走っていき、
こっちで泣き声がすればハッと振り返り、
大声で「先生」と呼ばれれば「わたし?」「先生って誰?」とオロオロし、
そういうものにわたしはなっていた。
笑える。
その時の自分を思い出して想像すると、プッと吹き出すように笑える。
ほんとうに、無力だ、と思った。
帰りの道は、たぶん自転車で通勤していたと思うが、
泣きながら帰った。
なぜ、涙が出たか。
子どものエネルギーに。
子どものどこまでも広がっていくエネルギーに、圧倒された。
圧倒された自分の身体が、それを受けて、震えていた。
ずっと震えていて、だから、涙が出ることで平衡を取ろうとしていたように思える。
ああ、そうだ。
人って、子どもって、ああいう生命だった。
バラバラなのだ、そもそも。
個体はそれぞれが、バラバラに、その生命のままに、有機的自律運動という大きなはたらきの中にある。
わたしもああだった。
あんなふうなエネルギーの塊みたいな生き物が、
わたしはどれだけの人に、環境に、生かされて、今に至っているのだろう。
そう思ったら、さらに、泣けてきた。
生命って、すごいな、って。
いいとか悪いとか、そんなものの手前に、生命って、すごいものだ、って
「ほんとう」が迫ってきて、号泣しながら自転車を漕いでいた。
号泣しないととても自分を保っていられないくらい、圧倒されていた。
泣きながら、なんとか、「自分」の範囲に戻ろうとしていたのかもしれない。
言葉にならない感じがどこまでも膨張していきそうだった。
いかに、「ほんとう」を、わたしは忘れているか。
「ほんとう」を、見失っているか。
唖然とする。震える。
その命が、その命のまま、有機的自律運動にはたらけば、どれほどのエネルギーに満ち発散するのだろう。
その時にわたしは意識できていなかったけど、わたしは自分が失いつつある、見失いつつある、わたしのままに有機的自律運動がはたらく可能性を思ってもいたのだろう。
反面、就労することで自分の0ポイントより集団の輪っかに沿っていくしかない、そのことにとっくに失望しているのに、まだまだそこを目指すことになる自分の未来を改めて突きつけられてもいたのかもしれない。
※ここまでに出てきた言葉はまとめています。
ひとりよがりな主観の言葉です。
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