有機的自律運動の活性化はなにをもたらすのか
有機的自律運動が活性化するには…
とか、考えていたんだけど、この1年くらい。
その前に、有機的自律運動の活性化はなにをもたらしているのか。わたしにとって。
有機的自律運動の活性化が阻まれ運動が起きない、というような状況にあれば、活性化を解放してやりたいし
反対に、有機的自律運動のまま拡散にまかせた状況では、ときに収れんに向かうような運動も、あるのが健全なのかもしれない。
拡散と収れんのタイミングや割合は、個体のもつ受容体や、環境によって違ってきそう。
拡散と収れんの、どちらがよくてどちらかがダメというのはなくって、両方あるっていう当たり前が、有機的自律運動の活性化ということかもしれない。
こんにちは。
ぼんやりした仮説がぽわんぽわんと、常に浮かんでいます。
ふと、ふわっと下りてきて、手元にくることがあります。
今回は、有機的自律運動の活性化について、考えてみようかと思う。
有機的自律運動の活性化が阻まれ運動が起きない、というような状況にあれば、活性化を解放してやりたいし
反対に、有機的自律運動のまま拡散にまかせた状況では、ときに収れんに向かうような運動も、あるのが健全なのかもしれない。
と、先に書いたが、例えば
わたしは渋谷の井の頭線の改札に行くだけで、粒とつながり線の活性化に溺れるし、
仕事場の玄関ドアを開けただけで、目の前の人や動きに心臓がドクンと打つくらいドワワになる。
有機的自律運動の活性化が起きていて粒とつながり線がワッサーってなっていく。どんどん活性化していく。
容易には収れんが起きずに、星座に落ち着かない。
拡散が止まらない。
なんとか落ち着きたくて、無意識だけど星座に収れんしそうな行動になっているのかもしれない。
例えば、渋谷駅を人の少ない方へ遠回りするとき。
これは、これ以上さらなる粒とつながり線が増えていかないように、刺激の素を避けている。
例えば、「もしいまが縄文時代だったなら」と想定してみるとき。
こんなに人が多い状況は緊急事態と感じて当たり前、という自分の体感に正直に気づいて、「ムリだ」と諦められる。諦められる、というのは、集団の輪っか(この場合は例えば同じ方向に歩いて進まなければというような)から、外れることができる。
例えば、具合悪そうな人に声かけるとき。
自分の中に発生しそうな「この人は具合が悪い→辛い」という星座が立ち上がりそうなのを、ほんとうにそうなのか確認できて相手に「星座の立ち上がり」をお返しできる。
例えば、
ピリピリしてる人が気がついたらお茶できるようにお湯を沸かしておいたりするとき。
直接声はかけないけれど、お茶飲みたくなったらお湯が沸いているといいし、それは、わたしがワッサーってなってるとき、一旦コーヒーのんだりしていて、その時にお湯が沸いていないとほんの少しさらにワッサーってなるから、わたしとおんなじかはわからないけど、確かめるほど重要なことでもないかもしれないし、沸かしておこう、という、わたしの経験をなぞることだったりする。
有機的自律運動の活性化に溺れるわたしが無意識にしていたことは、星座に落ち着く道筋を発見することだったのかもしれない。
一方、有機的自律運動の活性化を待つことなく、落ち着いている人、
星座がすぐに立ち上がり、集団の輪っかとのズレを無意識に微調整できる、そういう個体にとっては有機的自律運動の活性化はどのような意味合いを持つのだろう。
落ち着いていられている人になにが起きているのか、わたしは知らないのかもしれない。
刺激の素に体が応答して粒とつながり線が活性化することは当たり前のことで、ただ、現代に居るわたしにとってはタイミングが速すぎたり、多すぎたりしているのかもしれない。
もしいまが縄文時代だったなら、こんなにタイミングの速い、こんなに多くの、応答に迫られることはないのかもしれない。
危険な時とか緊急時以外は。
だいたいは、有機的自律運動のペースに任せておけばよかったんじゃないかな。
現代の、日本の、わたしにとっての有機的自律運動は、容易に活性化して、どこに行くかわからず、落ち着く方法もわからない天気のようだ。
ふっ っと息をついただけでホコリが舞うことがある。
サッ っと立った時にふわっとホコリが舞うことがある。
それくらいふわっふわっな感じの運動。
刺激の素に接しながら忙しく混じりあって過剰に活性化している。
拡散と収れんのタイミングや割合は、個体のもつ受容体や、環境によって違ってきそう。
拡散と収れんの、どちらがよくてどちらかがダメというのはなくって、両方あるっていう当たり前が、有機的自律運動の活性化ということかもしれない。
と考えてきた。
そして、ひとつひとつの個体によって、有機的自律運動の「ちょうどいい」活性化のバランスがあるような気がしてくる。
※ここまでに出てきた言葉はこちらにまとめています。
ひとりよがりな、主観の言葉です。
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