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【行為収れん】【表象収れん】

雨の降った翌日は空気がキレイ。
だから写真を撮る楽しさが増す。

こんにちは。
歩くお供にカメラはいかがですか。
最近、ようやくデジタルカメラを買いました。
このカメラとゆっくり仲良くなりたいです。

運動の軌跡がわたしの中に蓄積している。
これがわたしの「記憶」だとしたら、どんなことが起きるだろうか。

うまく例が出るかわからないけど、考え始めてみよう。

例えば、こんなことはないだろうか。
勉強しなくちゃならない、という時に限って漫画を手にとってしまう。連続ドラマの録画を見始めてしまう。

そういう子どもだったし、今もそうだ。

「肝心」と思われることから逸れていく。
「やらねば」から逸れていく。
これって、なにが起きているのだろう。

怠け者、ぐうたら、やる気なし、意志薄弱、気が散りやすい、根気がない

そんな言葉で言い表されそう。

一般的な理解ではそうであったとしても、改めて見直すと、なにが起きている?

わたしの体感では、「接続が起きない」状態、「接続待ち」状態、が続いているのではないかという仮説。

別の言い方をすると「思い出し」に翻弄されている状態(仮説)。


「行為収れん」「表象収れん」
「行為収れん」
過去に、有機的自律運動で星座がまとまって行為になった運動の軌跡

「表象収れん」
過去に、有機的自律運動で星座にまとまったが行為に至らなかった運動の軌跡
ことこ・ざわり

考えているうちにこんな言葉が出てきた。
有機的自律運動のはたらきの中、粒やざわりやつながり線の先に、認知や行為として星座にまとまってくる(仮説)。

有機的自律運動は拡散する運動だけど、星座の瞬間は収れんが起きている(仮説)。


しなくちゃいけない勉強や作業のある時に、わかっちゃいるけど向かえない時が多々あって。
反面、しなくていいところに首をつっこむ行為が発動しちゃうこともまた多々ある。

はたから見たら、ザンネンな人である。
自分から見ても、ザンネンである。

なんといっても、仕事をする環境では、こんなわたしはかなり使えない人である。

例えばこんなことがあった。
建築デザイン事務所のパート事務員をしていたとき。

毎朝、全員で事務所の掃除から始まる。
バス時間の関係で少し遅れるわたしは、玄関ドアを開けると同時にあちこち動いている人が目に飛び込んでくる。
当たり前だけど毎朝違う。

ある人は咳をしている。
ある人は暗い顔をしている。
ある人はいつにも増して動きが速い。怒っているのか?
ある人はやる気なさそうに椅子に座ったまま。
みんなをよそに猛烈にキーボードを叩いてパソコンに向かっている人。

気になる。
あの人のあの顔はまた夫婦喧嘩か? 悪化したのか?
あの人の猛烈さは、昨日、なにがあった? お得意様とトラブルか?
あの人の動きの速さは、昨日のわたしがしでかしたミスのフォローが念頭にあるからか?
あの人のダルそうな感じ、実はいつもの飲み過ぎなんじゃ? 働け

様々な「表象収れん」がわたしの中に発生して溢れかえる。
自分の中に溢れかえる「表象収れん」に心臓がドクンと大きく脈打つ。
まるで生命の危機みたいに、わたしはそれらに応答せずにいられなくなる。

「風邪?」と何気なく聞いて、「実は昨日またケンカして」と相手が話しだせばいいし、話さなくても、問いかけずにいられない。
〇〇さん、昨日は寝られたのかな。後でコーヒー飲もうね。お湯沸かしとくよ。
鞄を置いてゴミ箱の回収に追いつこうと走る。許して。祈るように。
あんたはいい加減自分の飲む酒の加減を認めろ。動け。

というように、「表象収れん」と「行為収れん」がめまぐるしい。

わたし以外の人は、わたしのようには溢れかえっていないようにみえる。
わたしだけがワタワタしている。オロオロしている。
誰にも「お願い」されていないのに、応答に忙しくなる。
行動しなくてもいいのに、「表象収れん」に溢れかえっている状態に迫られるように「行為収れん」に移行していく。
自分で動いているのに、まるでなにかに動かされているように。

しなくちゃいけない勉強や作業のある時に、わかっちゃいるけど向かえない時が多々あって。
反面、しなくていいところに首をつっこむ行為が発動しちゃうこともまた多々ある。
ことこ・ざわり

と、先に書いた。
これらは実は似たようなところから派生しているんじゃないかという仮説。

・「思い出し」の過剰さ

わたしの場合これが集団の中で起きやすく、
「表象収れん」にとどまれず「行為収れんに移行する」が発生しやすいのかもしれない。

反対に、一人きりの時は集団の輪っかに縛られていないが故に、「思い出し」は他者に向かわない。
行為にも向かわない。
ただ、なんとなく、湧いては消える、有機的自律運動のままになっている状態(仮説)。

意志の届かないところ、意志の働きにくいところ、その領土がわたしは広いんじゃないだろうか(仮説)。

言い換えれば「有機的自律運動」のはたらきの領域が広いんじゃないだろうか(仮説)。


誰にとっても、意志の領域と有機的自律運動の両方あるだろう。
わたしの場合はそのバランスが自然にはうまくとれないのではないか。
有機的自律運動は集団の輪っかに影響を受けると想像できるが、集団にあるとき、その影響はどのようにわたしに現れてくるだろうか。

運動の軌跡がわたしの中に蓄積している。
これがわたしの「記憶」だとしたら、どんなことが起きるだろうか。

今日は最初に問いを上げ考え始めた。
次回はもうちょっと、まとまってくるだろうか。
ぼんやり少し遠いところにまとまりがある気がしている。
全部を説明できるわけじゃないけど、考えてみることをしたいから、引き続き大海原にでてみるね 🌱


今日は、頭がバラバラする。
気候の影響だろうか。
この頭がバラバラするのも、有機的自律運動の活性化が過剰なときなような気がする。
ちょうどいいバランスをもたらすブレーキのようなクッションが、わたしには足りていないのだろうか???


*言葉については「まとめ」ています。
ひとりよがりな主観の言葉ですが。

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