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【仕事編・個人が悪い、組織が悪い、のもっと先】 0ポイントと出会う旅

窓の外が明るく光っている。
ガラス窓のキラキラがキラキラしている。
晴れ渡った日の窓も好きです。


前回は

今なら、自分だけを責めるようなことはしない。
かといって、職場が悪い、とも言わない。
「粒と星座」の視座から見えてくるのは、すべてが作用しあって目の前のことが起きているから、なにかひとつのことに罪や原因を負わせることは事実とはかけ離れるということ。

と書いた。

もし、そうであれば、わたしになにかできることはあっただろうか。

今から30年ほど前のことであるから、今の時代と同じようではないが、
もし、今の時代に同様の状況にあったら、
もし、「粒と星座」の視座から見ることができたら、

もしできることがあるとしたら、
わたしはわたしのしんどさを全開にダダ漏れにしていたかもしれない。
他の人に嫌な気持ちを与えるとか、場に嫌な空気が流れるとか、嫌な人と思われるだろうとか、いろいろ躊躇する要素は浮かぶだろうけれども、

でも、
だけども、

わたしという個体の中に起きている現れは、
わたしという個体が感じ取る他ないわけであり、
そのことは黙っていれば他者には伝わらないし、
勘のいい人がいれば受け取る人もいるだろうけれどそれは閉じた通じ方であり、弱い。
同様に影で文句を言うことも閉じている、弱い。
なにより、黙って自分の中に閉じ込めていれば、わたし自身がわたしという個体を安全に保つ努力を手放すことになる。

強いのだ。
組織、って。集団の輪っかって。
なぜ強い、と、わたしが思うかというと
個人が集まってできている集団の輪っかって、無意識だから、
だから誰も意識的に捉えることはできないし、考えることもできない、だからこそ、誰にも手をつけられない。

「集団の輪っか」自体、には、
誰も手をつけられないのだ。
触れるような実態はないのに、そこに実在している。

以前の記事で下記のように書いた。

他の人を参考にしても無駄。
だって、わたしという個体の0ポイントは、有機的自律運動のはたらきの中で至るものであり、わたしという個体が応答できているポイントだから。
じゃ、どうするか。
わたしという個体に現れてくる「応答の合図」、
「見える」「聞こえる」「感じる」「味がする」「動く」の先を、体感して自分と話していくしかないように思われる。

この、「個体」に「現れる」「応答の合図」を、個体である個人がどのように捉えられるか。
ここに、個体の、可能性があるのかもしれない。
と、先に書いた。

有機的自律運動がはたらいていて、この世界は、それのなすがままか?
というと、そうではない気がする。
コントロールしよう、というアイデアではない。
コントロールは、近年までに散々やってきた。国をあげて。
それでは持続可能じゃないことが次々と顕になってきている。

有機的自律運動のはたらきを当たり前に尊重しながら、個人の「応答の合図」も尊重する。
その出口が「行動」になる。
その行動は、個体である個人にひらかれている可能性と思えるのだ。


例えば
わたしの経験した朝の報道番組の放送室で、
そこに立ち上がっていた唯一で絶対で緊張感のある「集団の輪っか」
そこに沿っていくことに限界が来たわたしという個人は、自分の中に現れた「しんどい」を、表明してみる。

例えば
「担当番組のタイムキーパーがわたし一人というのは負荷が大きです」と表明してみる。

例えば
「出向職員がここまでの責任を抱えることはわたしにはむずかしいです」と表明してもよかった。

例えば
「そもそもタイムを計算して修正する、その緊張にわたしは耐えられなさそうです」と表明してもよかった。


個体の中に現れる

ある組織、ある集団の、全体の有機的自律運動のはたらきは
その中にある個体にも反映されているから

全体を知るには個体の中にそれは現れている

たまたまわたしという個人の中に現れた現象は
「もうムリ」だった。
わたしが辞めても別の人が入ればその人はなんなくタイムキーパーという役割をこなせるかもしれない。
でも、その一方で、例えば大学生のアルバイトの人が「もうムリ」になる可能性も含んでいるのだ。

全体の有機的自律運動は、集団の輪っかに沿っている。
その集団の輪っかに沿えないとき、または、沿って行けてるんだけどギリギリにいるとき、
個体である個人の中に、それは現れているはず。
という、気がするのだ。

全体と個体は、それをお互い含んでいる。
個体の中には全体が。
全体の中には個体が。

だから、「もうムリ」が、個体の中に現れていれば
そこに応答することで全体が変わる可能性に開かれる。

個体の中に留めれば、「もうムリ」は、明らかにならない。
変化の可能性は閉ざされる。

もし、個体である個人から「もうムリ」が表明されることがあったなら、
それは、組織が、変わる可能性に開かれるということ。
触れないはずの「集団の輪っか」に、変化が起きるということにつながるはず。

個人は、「もうムリ」を、表明できているだろうか。
「もうムリ」なのは個人の責任、と、思い違いしていないだろうか。

組織は、個体である個人の「もうムリ」を、聞き取る準備はできているだろうか。
個人の「もうムリ」は、組織の責任と勘違いしていないだろうか。

わたしにはできていなかったから、今、日々練習している。
わたしという個体に現れてくる0ポイント、応答できている範囲、に、耳をすまそう。

0ポイントにいつまで経っても至れないのであれば、それは、
「あるひとつの集団の輪っかに偏りすぎている」現場に在るのかもしれない。

表明できる準備はできているか。
組織も個人も。

有機的自律運動は、全てが作用しあって、いつでもはたらき続けている。
そのことに謙虚になれれば、「組織だ」「個人だ」と、対立構造みたいな、そんな小さいところに矮小化されないはずだ。

すべてが作用しあっているのだから。
そのほんの一欠片が個体である個人で
ほんの一欠片の個体である個人が集団の輪っかの要素で
人間以外に作用している要素は無限にあって

その中でもし、
なにかひとつ強すぎる要素、があれば、
例えば「唯一で強力な集団の輪っか」とか

ゆるめていくとか

そのためには気づく必要があるけれど
なにをゆるめるかとか

そのヒントはすでに個体である個人の中に現れていて
それを使わない手はないよね。

変化に開かれている。
そこには個体である個人の「0ポイントに至れなさ」を、過小評価しない、宝の宝庫に見える、そんな視点があるといいのかもしれないな、なんて。
思うけどどうかな。



※ここまでに出てくる言葉はまとめています。
ひとりよがりな主観の言葉です。

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