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【仕事編・個体の可能性】 0ポイントと出会う旅

雨がサッシ窓のへりに当たる音がする。
小雨なのか大粒の雨なのか
知らせに来ているようだ。
今、雨が渦になり始めた。まとまった雨がやってきている。

前回に下記のように記述した。

(不思議よね。
有機的自律運動って、そこかしこあらゆるものの間で起きているのに、
それを感じ取る「感受性」みたいな装置は、個体、個人の内側なんだから。
共感されにくいったらないじゃない。
それって、どういう構造なんだろうな… 
っていう考えはまた別にするとして、)

例えば、
車で出勤していた時は、あと1分早く家を出ればこの渋滞にはまらなかったのにとか。
出勤時間に間に合うかハラハラするからもうイライラが始まるとか。
到着したら他の人の車の停め方でわたしの車のドアが開きづらくてワサワサするとか。
着替えにロッカーに走ると中から同僚が飛び出してきてビックリするとか。

例えば、
車っていう個体と道路との間の有機的自律運動とか、もっといえば車を構成している成分のひとつひとつとかエンジンの構造とか、道路交通法っていうルールとか、地方都市であるその土地の車人口とか、その日の天候とか、曜日とか、会社っていう組織の構造とか。

例えば、
あと1分早く家を出れば、っていう1分は、どこから湧いて出てきているのかとか。
イライラしてくるわたしの中にどのような有機的自律運動の過去の軌跡が蓄積しているかとか。
その軌跡の「思い出し」現象はわたしに起きやすいのかとか。
ドアがどれくらい開くのがわたしにとって車から出やすいのかとか。
その日の服はわたしにとって楽なのかとか。
わたし以外にロッカーに人がいる確率はわたしの中でどう存在しているのかとか。

毎日、
同じことの繰り返しのように思える日々の中で
ありとあらゆるものとの間に有機的自律運動は新鮮に起こり続けている。
一方で、イライラしたり、ビックリしたり、ワサワサしたり、はわたしという個体の中に発生する。

例えば、
この部屋の模様ガラスの窓から緑が透けて見えることが
どれくらいわたしをスッと落ち着かせるか。
雨と緑が溶けているようなしっとりした窓は、ありとあらゆるものの間で起き続けている有機的自律運動がわたしに受け取られる時、そのように現れてみえる、そしてわたしに落ち着きをもたらす。

このことはわたしという個体の中だけで感受される。
たぶん、わたし以外の個体ではまた別の様子として現れてみえるだろう。

とっても、不思議だ。

有機的自律運動という「はたらき」自体は、どこでもいつでも何と何との間でも起きている。

個体は、そのはたらきの現れを、その個体内で固有に感じる。

「その人の感受性」「特性」みたいな言い方にまとめたくない。
以前に記述した、「受容体」というのが「個体」にある、とは想定しているけど
その受容体がどのようにはたらくかは、やはり、有機的自律運動のはたらきの中にあると考えているからだ。
その人に備わって変わらない特性かのように、「感受性」を固定したものとわたしは考えられない。
もうちょっと慎重に言いたい、という感じ。

わたしにとって、模様ガラスの窓に緑色が透けて見えて雨と混ざっているこの感じ、
今、起きている、この現象、
これはわたしに落ち着きをもたらす。
理由はわからないけれど、「ああ、そうだな」という、感じなのだ。

でも、わたしが次に、同じような場面で同じ感受になるかはわからない。


有機的自律運動のはたらきがある。既にある。人間が発生する前から。
有機的自律運動はいつでもどこでもあらゆるものとものとの間で起き続けている。
あっちでパパパ、こっちでパパパ、かと思えばあっちもこっちもパパパ、起き続けている。

そんなはたらきの中に、ひょっこり、個体が発生する。
個体が接し、個体の受容体で受容され、応答している範囲は、
「見える」「聞こえる」「感じる」「味がする」「動く」などなど、個体において「応答している合図」が「現れる」。

この、「個体」に「現れる」「応答の合図」を、個体がどのように捉えられるか。
ここに、個体の、可能性があるのかもしれない。

(不思議よね。
有機的自律運動って、そこかしこあらゆるものの間で起きているのに、
それを感じ取る「感受性」みたいな装置は、個体、個人の内側なんだから。
共感されにくいったらないじゃない。
それって、どういう構造なんだろうな… 
っていう考えはまた別にするとして、)

今回の最初に、前回記述した上のような問いを再提示した。
有機的自律運動という大きなはたらきの中にあり、わたしという個体が「応答の合図」を受け取っている、そのことがどのような構造にあるのか、考えたりしてみた。

やっぱり、有機的自律運動の落ち着くままに、そこに向かって有機的自律運動がはたらいていれば、
わたしという個体の中に「ここちよさ」や「落ち着き」や「ああ、そうだよね」というような納得感が湧いてくるんだろうな、と思った。
それは、心強い、羅針盤になる気がした。

わたしは長い期間、「集団の輪っか」に「沿っていく」ことを優先してきた、無意識に。
わたしの0ポイントはわたしという個体に見逃され、なおざりになり続けてきた。
じゃ、わたしの0ポイントを優先していこう、となったとき(「集団の輪っか」に沿っていくことに限界がきたから。転職30回という結果が出ているから)、どうしたらいいかわからなくなる。

他の人を参考にしても無駄。
だって、わたしという個体の0ポイントは、有機的自律運動のはたらきの中で至るものであり、わたしという個体が応答できているポイントだから。
じゃ、どうするか。
わたしという個体に現れてくる「応答の合図」、
「見える」「聞こえる」「感じる」「味がする」「動く」の先を、体感して自分と話していくしかないように思われる。

この、「個体」に「現れる」「応答の合図」を、個体である個人がどのように捉えられるか。
ここに、個体の、可能性があるのかもしれない。

と、先に書いた。

有機的自律運動がはたらいていて、この世界は、それのなすがままか?
というと、そうではない気がする。
コントロールしよう、というアイデアではない。
コントロールは、近年までに散々やってきた。国をあげて。
それでは持続可能じゃないことが次々と顕になってきている。

有機的自律運動のはたらきを当たり前に尊重しながら、個人の「応答の合図」も尊重する。
その出口が「行動」になる。
その行動は、個体である個人にひらかれている可能性と思えるのだ。

個人の「応答の合図」を受け取るのは意外にむずかしいと思われる。
なぜなら、わたしは、長らく「集団の輪っか」に「沿う有機的自律運動」を優先してきたからだ。
その粒とつながり線の運動はわたしの中に「軌跡」となってしっかり組み込まれていて、血肉化しているからだ。
わたし個人の「応答の合図」を優先しているつもりで、血肉化している「集団の輪っか」に「沿う有機的自律運動」の応答しか拾えていないかもしれないのである。

ね、けっこう、たいへんでしょ。

無意識だから。

「自分」がしている「決断」「行動」と思い込んでいて、実は、「集団の輪っか」に「沿う有機的自律運動」ばかりをしている。

そういう自分も、おつかれさまって言ってねぎらって、自分のペースでいいじゃないですか、行動っていうのを選んでいけたら。

わたしがわたしと話すための言葉で、見えてきた。
「集団の輪っか」に「沿う有機的自律運動」を優先していたことが自覚できた。
だから、これまでの自分をもう憎んだり悔しがったりできない。
そういう気持ちは湧かなくなってきている。

わくわくしてるんです。

「集団の輪っか」に「沿う有機的自律運動」を優先してきて、
じゃあ、
こぼれ落ちていた、外れていた、拾えていなかった、それゆえ成り得なかった星座が、わたしにはあるんだ、って、
希望ですよね。わくわくします。

自分勝手をする、好き放題する、と、すごく似ていて、困っちゃうけども、
でも違う、
有機的自律運動のはたらきを尊重できてなおかつ自分の0ポイントも尊重できて、っていう
そういう出口を発見していけるとしたら、個人の「応答の合図」は羅針盤になりそうで、わくわくします。


※ここまでに出てきた言葉はまとめています。
ひとりよがりな主観の言葉です。

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