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【仕事編・学童保育指導員④ 他人の中に写るわたし】 0ポイントと出会う旅

雷が落ちる。
大きな雷が立て続けに落ちている。
窓の外は濃い緑色と水浸しの地面に雨が跳ね上がっている。
ここはカフェだから、一人だけど心細さがない。
人がいるって、すごいな。


前回は、昆布巻きにされた経験を書いた。
すごく怖い経験だったけど、指令を出していた子どものことが空恐ろしくなったけど、それでも、なぜか、その子たちを憎むことはできない。

まわりまわって、という言葉があるように、
子どもをそのように仕向けているのは、ほんとうは、なんなんだ、という問いの方が、わたしに迫ってくるからだろう。

だって、学童に通ってくる子たちはみな、両親が共働きだったり、ひとり親だったり、同じ団地に家があったり、同じ小学校に通っていたり、時代も周辺環境も共通している。

だけど、わたしの即興のお話をたのしんでいる子たちと、集団で誰かを痛めつけることに向かう子と、がいる。

人の心の中を推測はできないし、しない方がいいけど、わたしから見て天国と地獄のようなこの分かれかた、この差はなんだろう、と。
30年経っても今でも思い出す。

本人に聞けたわけじゃないから確かじゃないし、繰り返すけど推測なんてしない方が誰にとってもいいし、無益と思うけど、あの目はなんだったのだろうと思わずにいられない。

指令を出していた子と、その指令をきいた子、ひとりひとりは全く違う人間なのに、集団になったときの目が似ていた。

昆布巻きにされたあの時、わたしは睨まれて憎悪を向けられているんだけど、なんか、わたしをすっ飛ばしてわたしの向こうに憎むものがある感じ。
わたしはそこまでの憎悪を向けられる謂れがない気がしてされていることとの間に折り合いがつかない、が、憎悪の強さにたじろいでいる。そのように憎悪を向けられるならきっとわたしがなにかしたのだろう、という気さえ湧いてくる。

なにか、「今この場」にいない感じの目なのだよね。

だから、その子たちを憎むことができない。
わたしは痛くて怖い思いをしたからそのことには怒っているけど、わたしのそんな瞬間的な痛みや怒りよりもっと、この子たちにはなにかあるんだろうと思えた。

でもねー、そう感じたからといってねー、その子たちに話を聞く術も度量も、わたしは持っていないのよねー。
情けないけど。
学童で数時間だけ一緒に過ごして、この子たちも「仕方ないから来てやっている」感じのとき、要のところには、とりつくしまがない。
わたしに見えていないものがたくさんあり過ぎて、もうほんと、無力で無力で、情けない。

わたしの即興お話を楽しめるような子たちは、あっけらかんとしているというか。
もちろん怒ったり、思うようにならなくて泣いたり地団駄ふんだり人に八つ当たりしたりは日常的にある。
けれど、隠してる感じがないというか、隠すべきものがないというか、バレちゃうというか、んー、人と共有できちゃう範囲で生きていられている、というか。

わたしを昆布巻きにした子たちは、
なにもかも正直に言うわけにはいかない、というような。
言ったってどうせわかってもらえない、というような。
だから当てになんかしてないよ、というような。
どうせ助けられないじゃん、というような。

それはきっと、そういう体験をしてきているからなんだろう。

わたしのような、フラッとやってきて、適当に好かれて、みたいな人間のこと、それは、嫌だろうなと思う。


人の心の中を推測なんかできないし、推測しても誰にとってもろくなことはない、とはわかっているんだけど。
どうにも、あの時のあの子たちのあの感じ、どうしたらいいんだろう、みたいなどん詰まり感は、ずっとわたしの体に残っている。

あの子たち程ではないかもしれないが、わたしもまた、社会の中に、就労の中に、自分が生きていく形が未来が見えなくて、どん詰まりを感じ始めていたからかもしれない。
だから、あの子たちの心の中を推測したんじゃなくて、わたしがあの子たちの中にわたしの不安を写し取ったのかもしれない。

どうやったら、この社会に、立ち向かっていけるのだろう、という感じ。
まるで一人で戦っていかなきゃならないかのような絶望感。
どうせわかんないでしょ、というあきらめのような感じ。
見てないじゃん、誰も、わたしのほんとうのところなんて、見てないじゃん、というような不服感。
そんなものが写っていたんじゃないかな。

それでも、社会に、就労に、向かっていかなきゃならないんだ。
という「当たり前」の前に、挫けそうになっていた。


※ここまでに出てきた言葉はまとめています。
ひとりよがりな主観の言葉です。

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