月と財布

「満月に向かってお財布を振ると金運が上がるんだって」

 そんな話を友人から聞いた。数年前のことだ。

 迷信というのか民間伝承とでもいうのか、科学的にはまったく根拠のない話だったけれど、試してみたらちょっとだけ運が良くなった……ような気がした。

 例えば、その頃やっていたバイトの時給が5円上がったとか、バイトのメンバーにも少しのボーナスが出たとか、宝くじで1000円当たったとか、古い日記帳に五百円札(!)が挟まっていたとか、そんなちょっとしたことだったので満月との関係は定かではなかったが、とにかくいいことが続いたのは確かだったので満月に気づいたときには財布を振るようにしている。

 そんなわけで今夜も夜半にベランダへ出てお財布を振った。明るい月にすがすがしい気持ちになる。が。

「はぎゃっ!」

 変な声が出た。財布を落としてしまったのだ。

「うそ、うそ、うそ、いやーん!」

 私の部屋はアパートの3階。財布は私の手をすり抜けて1階の庭部分に落ちたことになる。住人は眠っているのか、明かりのない庭のどこに財布が落ちたのかは知りようがない。朝になったら1階の人に事情を話して探させてもらおう。それにしても恥ずかしい……とうなだれ気味に室内へ戻ろうとしたそのとき、背後に光を感じて振り向いた。

「こんばんは~」

 薄く透き通った背中の四枚羽、白い肌とくりっとした緑色の目、淡いクリーム色の動きやすそうな服から伸びた手足。その両手には長財布と思われるものが一つずつ握られていた。

「あなたが落としたのは、この金の財布ですか。それともこちらの銀の財布ですか」

「その前に、あなたは誰?」

 きっと私は夢を見ているのだろう。いつのまにか眠ってしまったに違いない。そう思うと冷静になれた。

「えっと、妖精さんです。今夜はお月さまのお手伝いをしています。なぜか満月だとお財布を向けられることが多いそうで」

 振られる財布の数に比例して落とされる財布も多くなるのだろう。お月さまもたいへんだ。

「それで、お財布を落としましたよね?」

 どっち? と示すように妖精は両手を差し出す。けれど、どちらも私の財布には見えなかった。

「私が落としたのは金色のお財布だけど、あなたの持っている金の財布は私の財布じゃないみたいです」

 カードも身分証明書も入った財布だ。自分のものが返ってこなければ意味がないので正直に答える。妖精は首を傾げて二つの財布を見比べ、それから数回まばたきした。

「あら、あら、あら、私ったら間違えちゃったみたい。このごろ金色のお財布が結構多いのよね。あ、ちょっと待ってて、別のを持ってくるわ」

 少しばかりそそっかしいらしい妖精は、そう言ってふわりと宙を舞う。その姿がふっと消えるのを見ながら、私の財布は下に落ちてるはずなんだけど、と思ってしまう。そんな思いとともに一度視線を暗い階下に向けてから、私は再び空を仰いだ。

 ベランダは寒かったけれど、その分、空気が澄んでいよいよ満月は美しい。これも夢なのか、それともこれは現実なのか、悩みそうにもなるけれど、月が綺麗なのは間違いない。それだけでいいと思ううちに妖精が戻ってきた。今度は私の財布を持っているようだ。

「中身を確かめてもいい?」

 受け取って財布の中を見る。うん、私の財布だ。

 お礼を言うと、妖精さんは嬉しそうに「んふふ」と笑った。

「正直者には全部のお財布をあげる、なんて気前のいいことは言えないけど、ちょっとだけいいことが起こる魔法をかけてあげるね」

 妖精は細いステッキをふわふわと目の前で振った。その軌跡に金色の糸が浮かぶと、妖精さんは私の右手を取って糸の中をくぐらせる。右の手首に細い金のブレスレットを着けたような感じになった。

「これが消えるまで有効です。どうぞ素敵な日々を。あ、もう、お財布は落とさないでね」

 ウィンクを残して軽やかに飛び立つ。月の光を受けてきらきらと煌めく羽が長く夜空を渡っていった。

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