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備忘録的なもの「自分史の一部(暗黒時代)」

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何だかんだで俺は恵まれた人生を歩んできたなと思う。
ただ、俺にもちょっとした暗黒時代があった。11歳〜13歳の頃は己の精神がひたすらに暗黒な状態であった。
今回は備忘録的なものとしてその時期について書いていきたい。

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俺が小学5年の時に両親は離婚した。当時の父親と母親の年齢は33歳であった。俺が今現在(令和3年現在)45歳なので、それよりははるかに若い。
父親の度重なる酒乱&暴力が原因で母親が俺と妹を連れて父親のところから出ていったのである。俺が母親に「新しいお父さんをさがそうよ」と言い、それで母親は離婚を決意したらしい。それでも、直ぐに離婚とゆ〜わけにはいかなく暫くは「別居」とゆ〜形をとっていた。

母親と俺と妹3人は6畳二間で汲み取り式の便所があるボロボロの借家に引っ越した。当時、専業主婦だった母親が借りることが出来る物件はあ〜いったものしかなかったのだろう。
そのボロボロの借家から通うことになった新しい小学校にいた子供達は、小綺麗な住宅が並ぶ新興住宅地から通う子供が多数派だった。当時はバブル期である。経済がイケイケドンドンの時代だ。つまり、新しく通うことになった小学校には小金持ちのよ〜な中流家庭の子供が多かったのである。

子供の世界とは時として残酷であり、自分達と異質なものはイジメの対象になりがちなのだ。母子家庭で貧乏だった俺はごくごく自然な流れでイジメの対象になった。物理的な暴力は受けなかったのだが、何かと言葉の暴力をもらった。
当時の俺は表情の乏しい暗い子供だったと思う。己自身が「新しいお父さんをさがそう」と言ったわりには、やはり両親の離婚は当時の俺にとってそれなりの精神的なダメージがあったのだ。また、周囲の人間と比べて己の家庭が相対的にヒドく貧乏であるとゆ〜事実も当時の俺にはそれなりにこたえた。その辺りが原因で表情の乏しい暗い子供になったのだと思う。

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それでも、暫くすると、とゆ〜か気がつけばいつの間にかイジメはなくなっていた。ただクラスで孤立しているとゆ〜か浮いているだけの存在になっていた。理由はいまも分からない。見かねた担任の教師が何らかの働きかけでもしたのか、あるいは、クラスの生徒達が表情の乏しい俺を気味悪がったのか、または憐れみのよ〜な目で見るよ〜になったのかその辺りはホントよく分からないのだが学校での露骨なイジメはなくなっていた。
因みにその頃、妹(当時小学3年)は明るくそれなりには学校を楽しんでいたよ〜に思う。

その頃、家庭では母親に新しい恋人が出来た。
母親よりは少し年上の夢を追っている画家である。母親とは同じバツイチ同士で、子供も俺ら兄妹と同じく2人いるらしかったが縁は完全に切っているよ〜だった。その画家は俺の父親とはタイプが全く異なる男性だった。
俺の父親は泥酔すると母親に暴力をふるう人間ではあったが(因みに、たちの悪い酒乱によくある泥酔状態の時の記憶がないパターン)、周囲の人間に対する人当たりはわりと良い非常〜に社交的な人間であった。若い頃はヤンチャではあったが地元の知り合いや友達が多く、躁と鬱を繰り返しているよ〜な感じの人間であった。ま〜友達が多いのは毎晩飲み歩いていたからなのかも知れないのだが。

一方、母親の新しい恋人はそんな父親とは真逆のよ〜な性格で、社交的な感じではなく気難しそ〜な雰囲気があり、わりと知的な感じでもあった。母親は「あなた達のお父さんにはない魅力がある」とか言っていた。でも、当時の俺にはヒドく人嫌いな人間であるよ〜にも思えた。何となく近寄り難いオーラを放っているよ〜に思えた。

その恋人は俺らが住んでいるボロボロの借家の近くに引っ越してきた。俺らが住むその借家より更にボロボロなアパートの2階にだ。因みに、俺らが住んでいたボロボロの借家もその近くにあったボロボロのアパートも大家は同じだった。
母親はそこへよく通うよ〜になった。おセックスをしていたのだろ〜と思う。当時はまだ二人は30代である。今の俺からすれば当然だろ〜と思う。しかし、当時の俺はやはり淋しい気持ちもあった。己自身で「新しいお父さんをさがそう」と言ったわりには正直好ましい状況だとは思えなかった。

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その後俺が小学6年になった頃、母親はその恋人とギャラリーを始めることになった。絵を売る商売である。その恋人の絵ではなく、何やら能力の高い知り合いの画家の絵を売るのだと言う。その為にもゼニは節約しなくてはならないとゆ〜話を聞かされ、そして、母親と俺と妹はその恋人が住むボロボロのアパートに引っ越すことになった。その母親の恋人と同居することになったのである。

その母親の恋人からは「君たちのお父さんにはなれない」ときっぱりと言われた。
そのボロボロのアパートもやはり6畳二間であった。そのうちの一部屋が俺と妹の部屋となった。その6畳を半分に仕切った空間が俺の居場所であった。そして、もう一部屋は母親とその恋人との部屋であり、そこへ俺と妹が入ることは厳しく禁じられた。また、風呂は決められた時間までに入るよ〜に指示された。母子3人で暮らしていた時よりも非常〜に窮屈な生活となり、そこから開放されたいかのよ〜に俺と妹は毎週土曜日にバスを使って父親のところへ遊びに行っていた。
おそらくは週末に子供達がいない方が母親とその恋人にとっては都合が良かったよ〜に思う。

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その頃の父親は母親に対してまだ未練があった。非常〜に自分の行いを悔いており、母親に戻って来て欲しいと願っていた。母親ともう一度やり直したいと言っていた。その為か、離婚(正確には別居中)する前は俺らとは全くと言っていいくらいに遊んでくれなかったのだが、その頃の父親はよく俺らと遊んでくれた。
父親は今までの仕事に加え新聞配達もしているよ〜だった。その新聞配達で使っているバイクに俺と妹を乗せて遊んでくれた。
俺は平日は窮屈な生活をしていた為か、その50ccバイクの3人乗りは非常〜に爽快で楽しかったのを今でも覚えている。
妹も楽しんでいたよ〜だった。
父親は手土産に自分で作ったカレーをもたせてくれたりもした。母親と恋人と俺と妹の4人で食えとのことであったが、家に持ち帰ると母親はそれを捨ててしまった。迷惑だと言っていたよ〜に思う。

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母親達のギャラリーは全く儲かっていないよ〜だった。世間がバブルで浮かれていよ〜が、名も知らぬ画家の絵なんぞ買う人なんていなかったのだろう。
そして、身内を含めての家族会議のよ〜な話し合いが開かれた。そのギャラリーを始めるにあたり、母親の母親、つまり俺の祖母にあたる人が祖父に黙って母親達にゼニを貸していたのである。
ところが母親達は返せる算段が全くなかったのである。
祖父母の住む公営団地で開かれた話し合いには、祖父母、母親、俺、妹、母親の弟である叔父一家(叔父、叔父の嫁さん、小さい子供)が参加した。母親の恋人はいなかった。身内から嫌われていたのである。嫌われていると言うよりは、許せない存在と言った感じであったと思う。母親は皆からその恋人と別れるべきだと言われていた。祖父母は俺の父親の方がまだマシだったと言っていた。
母親は皆から悪者扱いされながらも、その恋人をひたすらに庇っていた。
結局、その話し合いでは何も解決しなかったよ〜に思う。
祖父母は母親のことを「あいつ(母親の恋人)に洗脳されて母親は頭がおかしくなってしまった」みたいなことを言って怒ったり嘆いていたりしていた。

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中学生になると俺はほとんど誰ともしゃべらないよ〜になった。勿論、部活動なんかもしていない。正直言って中学1年の1学期の記憶がほとんどない。唯一の記憶は同級生の男5〜6人に囲まれ「か〜ごめ、か〜ごめ」と言われながらボコボコと蹴られたことくらいであろ〜か。
その時も反撃する気もなかったと思うし、悔しいとか泣きたいとかゆ〜気持ちもなかったよ〜に思う。
何となくその日その日を生きていただけだったのかも知れない。

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俺が中学生になって直ぐに母方の祖父が亡くなった。60代前半だった。実の娘である俺の母親との関係は悪いままに亡くなったと思う。
母親は葬儀で泣いていた。そして亡骸となった祖父や祖母に謝っていたよ〜な気がする。
そして、祖母が一人になってしまった為、母親と俺と妹は祖母と同居することになった。
俺と妹が夏休み中に祖母が住む公営団地に俺らは引っ越した。
母親と恋人は別れたとのことだった。でも、実際は二人は別れてはなく、祖母や俺らには内緒で付き合いは続いていたのだが。

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その公営団地は出来たばかりの3DK型で、とてもキレイだった。
そこで俺は生まれて初めて自分の部屋を持つことが出来た。
非常〜に嬉しかったことを覚えている。
新しい生活は祖母が主婦業を主に担い、母親は昼は会社勤めをし、夜はホステスをしていた。俺と妹に対してもう二度と貧しい思いをさせたくないとのことで母親は昼夜と働いていた。

その公営団地から通うことになった中学校には同じ公営団地から通う生徒も何人かいた。
何となくではあるが、転校先の中学校は以前通っていた小学校や中学校よりも、所謂小金持ちの子といった人間の割合が少ないよ〜に感じた。
新しく通うことになった中学校では、何故か俺はわりと歓迎されたのである。
ちょっと悪ぶっているよ〜な人間がやけに俺に親しくしてくれたりもした。

俺は中学校1年の夏休みが終わった2学期から生まれ変わったよ〜に明るくなった。
転校した中学校で人間が一気に変わった。窮屈な日常生活から開放されたからかも知れない。また、学校自体も気さくな人間が多かったからかも知れない。
己が置かれた環境が変わることで、こ〜も人間は変わるものかと思う程に俺は変わったのだ。
そして、そこから先はホント〜に恵まれた人生を歩むことになる。
友達とそれなりに青春を謳歌した。
悪ぶっていた頃もあったし、中二病っぽいものを患ったりもした。
その後の残りの中学生活は楽しく過ごすことが出来た。
そして、それ以降も楽しく充実した人生を歩むことが出来たのである。
勿論、色々とツラいこともあったが、総じて恵まれた環境で生きてこれたと思う。

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その後の家庭環境について少し触れておく。

中学3年の頃に祖母は病気になり入院した。そして、俺の高校受験の受験結果を聞いて安心して喜んでくれた後、ちょっとしてから亡くなった。祖父と同じく60代前半だった。あの時の俺は、俺が記憶している中では人生で1番泣いたと思う。後にも先にもあそこまで泣くことはないのではないか。
俺は祖母と同居している時に、祖母に反抗期のよ〜なあたり方をしてしまったことが一時期あったのだ。それをもの凄く悔やんだ。今でも悔やんでいる。

祖母が亡くなった後、俺が高校生になった時のことだ。母親の恋人が俺らの前に再び現れた。
母親が実はまだあの恋人と付き合っているのだと言う。祖母が生きていた頃に「あの二人はまだ付き合っているのではないか」と俺に言ってきたので、俺もそ〜なのかな〜なんて思っていたのだが、実際にそれを知った時は少々面食らった。
そして、再び同居したいのだと言ってきた。
母親の恋人は母親のことがど〜しても好きなのだと言っていた。母親も同じ思いのようだった。
母親の恋人は「やはり君たちのお父さんにはなれないが、経済的な支援をしたい」と言ってきた。
俺はその頃はもうだいぶ成長しており、自分の世界もだいぶ広がっていたのでそれをすんなりと受け入れることが出来た。
母親が昼も夜も俺らの為に頑張って働いてくれていたことには感謝していたし、母親の人生もあるだろう、好きにすればいいと思っていた。
でも、妹の方は少し違っていたかも知れない。それでも結局はその4人の同棲生活が再びスタートした。
俺らが祖母から引継いだ公営団地に母親の恋人が転がり込んできた形だ。

母親と母親の恋人は居酒屋をやりだした。これが商売としてはもの凄く上手くいったよ〜で、おかげで以前よりも生活は豊かになり、俺の大学の学費まで出してくれることになった。ホント、感謝である。
母親と恋人は居酒屋が仕事なので昼夜が逆転したよ〜な生活となり、俺と妹とは同じ生活圏の中ですれ違って生活していた。

妹は高校生になるとめちゃめちゃにグレた。
バリバリのヤンキーギャルになったのである。暴走族や背中に見事な和彫りの刺青が入った人なんかとお付き合いをしていた。
当時は俺とも母親とも大いに喧嘩をしていたが、年齢を重ねるごとに落ち着いてきて、今では母親とも俺とも関係は良好だ。

何だかんだで今では俺も妹も、母親とその恋人とも(2人はずっと内縁の関係)仲は良い。色々とあったが今では仲は良い。
また、俺と妹は今でも父親とも仲は良い。父親は母親への思いを諦めてから、ちょいちょい彼女が出来ては変わっていたのだが、歴代の彼女とも俺も妹も仲良くやっていた。

何だかんだで恵まれた人生を俺は歩んだと思う。
ただ、もし、祖父があのタイミングで他界せず、あの暗黒時代がもっとずっと続いていたなら、俺はど〜なっていたのだろ〜かと思うことがある。
あのまま暫くの間、あの暗黒時代が続いていたとしら、俺はもしかしたら犯罪者になっていたり、廃人のよ〜になっていたかも知れない。
そ〜考えると、祖父母が命を削って俺らを助けてくれたのかも知れないなんて思ったりもするのである。
ホント感謝しかない。


因みにこの記事ヘッダー画像は、昨年の秋に当時中学1年の娘が撮影したものを使用させてもらった。

 
 

ええっ! ホント〜ですか。 非常〜に嬉しいです。