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自分が求める「最大」ってなんだろう?

先週、ある日の晩、一人の大学生とお話をした。
その彼は、いま自分でカフェを経営しようといま一生懸命だ。
コーヒーが大好きで、自分で豆を選び、焙煎、淹れ方、あらゆる試行錯誤を常に重ねている。

「いつも自分は『まだまだ』だって思ってしまって、自分の評価が低いんですよね。自分の『最大のところをアピールしたい』と思うんです」

いろいろとお話しをしているなかで、いま彼自身が悩んでいることがポロリとこぼれた。

わかる!
私もそう思うことある!

彼のポロリと出た言葉に、思わず声をあげてしまった。

自分の「最大」の状態を常にアピールできたら、って思うことある。
きっと、その状態って最強だろうな、と。

でも、自分にとっての「最大」って、どんな状態だろう?
話を聴きながら、少し考えさせられた。


私の場合だと、こんな感じだろうか。

自分でこれまでに経験してきたことから、人にはどんなことであれ「物語」があると思っていて、必ずそれぞれに「価値」がある、と思っている。
でも、意外と自分自身ではそのことに気がつかなかったりする。
それを引き出して形に残す、ということを自分の「仕事」としたいと思って、いまそのことに取り組んでいる。
そんな自分の「仕事」で相手の人が喜んでもらうこと、自分に自身を持ってもらうことになるのが、自分にとっての「最大」だよな、と思う。 

彼にとっての「最大」も同じような内容だった。

自分の淹れたコーピーで、
「リラックスしてもらいたい」
「喜んでもらいたい」

「そう思うと、どうしたら美味しいコーヒーを淹れることができるだろう、ってずっと考えたり、試したりします。でも、その度に『まだまだだよな』って思うっちゃんですよね」
彼は、そう語ってくれた。

どうしたら、相手が喜んでもらえるだろうか?

やはり、ここにつきる。
若干ドヤ顔もしたくなる気持ちもなくはない。
でも、それは自分だけの満足だ。
自分も満足して、相手も満足する。
というか逆だ。
相手が満足することで、自分も満足する。

それにしても、「どうしたら…」と問いただしていくと、とてもキリがない世界に突入する。
いつまでたっても、何をしても、頭だけで考えているだけでは満足のいく結果なんて出てこない。
結局は、そのときが来ないと見えてこない。

いや、「そのとき」が来ても、果たして納得のいく答えにつながるのだろうか?

自分の「最大」を提供できた瞬間が訪れたとしても、その刹那、

「もっといい方法があるかもしれない」
「もっと喜んでもらえることがあるかもしれない」

という思いになるだろうなと、そんなことを想像してしまう。
考えるだけでキリがないのはもちろんだけど、体験してもきっとキリがない世界なのだ。

「最大」を求めることは、ものすごく大切。
なぜなら、目標だから。
だけど、そこまでに及ばない自分を責めるだけだと、「できない自分」がずっと続いていってしまう。
それは、ちょっとしんどい。

だから、何かひとつでも自分にできたことがあれば、素直にそれを認めて、自分を褒めたらいいと思っている。

「あ、こんなことできた」
「いままで言えなかったことが言えた」

そう思える瞬間って、きっと誰にでもあるだろう。

でも、そのことを否定して、
「いや、まだまだ」
では、これからの気が重たくなってくる。
確かにそう思いたくなる瞬間はこれから


と思うよりも、できたことに、自分が「できた!」「嬉しい!」と感じたのであれば、その感情を素直に受け入れたらいいと思っている。

そう感じたことは、事実なのだから。

そこをしっかりと自分に落とし込んだうえで、

「さあ、今度はどうやってみようか?」
「まだ、他にもやれることってあるよね」

という気持ちで考えるほうが、きっと楽しい。
まだまだ出来ていない自分、と思うよりも、もっとできる自分になりたい、と思ったほうが自分の気持ちがワクワクする。
単純に考えても、そんな気持ちのほうが前に進みやすい。

常に最大の状態でいられたら本当にベスト。
だけど、これが最大だ、これでいい、と思えた瞬間、自分の成長が止まるような気がする。

「最大」の状態って、それを追い求めようと思った時から始まっている、と思ってもいいかもしれない。
そもそも、「最大のものを求めたい」と思えるものに出会っている、そんな環境に身を置いている、ということ自体がとても幸せなことなのかもしれない。

彼と話をしながら、そんなことを思ってしまった。

今度、彼が淹れたその瞬間の「最大」のコーヒーを、ゆっくりと味わってみたい。

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