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哀しみの構造

土曜日の夕刻、イルミネーションの美しい郊外の街で、ユダヤ人の友人・エレンとその夫ビクターと一緒にお茶を飲んだ。

久しぶりの夫婦二組での待ち合わせ。
カフェに向かう車中で、「今晩、なに話そうか…」と夫に尋ねると、
「う~ん…やっぱり天気の話」と、さすが半分イギリス人。
いくら波風を立てるのが苦手とはいえ、たまにほんとうに延々と天気の話ばかりしているので、本気で腹が立つ。

エレンとビクター夫妻とは、お互い結婚前からの知り合いで、地中海に暮らすユダヤ人の家系、かなり裕福な実業家ファミリーである。
ひとり息子に軽い自閉傾向があり、今では不登校になって、悩みは尽きない。
お互いの子どもが同世代なだけに、軽い近況報告でも、不用意に悲しませることを言わないよう、無意識に気を遣うようになってしまった。
それでもって、今回の戦争である。

「ほんとうにこんなひどいことになって……。世界中の人がイスラエル人を憎むでしょうね。そうされても仕方がないよね」
とエレンは深いため息をついた。
「でも、ユダヤ人全体が同じように見られるのが、やっぱりつらい」
すると、夫と目の前で陽気に天気の話に講じていたビクターが、
「別に今に始まったことじゃないよ」と口をはさんだ。
とくに皮肉は込められていない。
きっと明日も雨さ、というように、
「これまでもずっとそうだったし、きっとこれからもね。」
と彼は言った。

ユダヤ人迫害の歴史は、きっと彼らのDNAに刻まれるレベルで受け継がれてきたんだろうな、と思い至る。私たちが生きてきた、たかだか30年や40年の歴史の認識で語れるような話ではないんだ。
でも、それでもやっぱり現在、イスラエルが国家としてパレスチナに取っている行動は、常軌を逸脱しているし、イスラエル自体をさらに孤立させていくようにしか見えない。
それこそユダヤの民は、憎しみからは憎しみしか生まれないことを誰より知っているはずなのに…と思った瞬間、いや、やっぱり私に、この民族の苦しみがわかるわけがない、と思い直す。

結局、聞くことしかできない。

救いは、目の前にいるこの二人が、特定の敵を定めて罵倒する、そういう二項対立の信望者ではなかったこと。
エレンにもビクターにもイスラエルに暮らす親戚はいて、彼らの家も爆撃されてしまったけれど、それでもパレスチナを非難する言葉は一度も発しなかった。
ただ、終わりのないこの構造が哀しいと。

構造・・・。

そういえば、ロシア・ウクライナ戦争が始まったあたりから、私は、二項対立の信望者と、そうでない人とのつき合い方が変わっていった。
日本人、外国人に限らず。
コロナに関してもそうだった。
意識したわけではないが、自然とものごとを二項に対立させて話す人々とは距離を置くようになった。
それがどういう意味なのか、今も考え続けている。

敵を外部に定めないと、立ち位置が保てない人がいる。
時と場合によっては、自分もそうなりそうな時がある。
だからこそ、意識して距離をおくようになったのだと思う。
その考え方は、毛穴から言葉から、ウイルスのように伝染するから。
状況が変われば、私も敵とまったく同じことをする、という認識を片時もなくさずにいたいから。
距離を置くことで、私は抵抗している。

最後に、今年観た中でいちばんよかった映画の話題になり、満場一致でオッペンハイマーに。

いろんな見地から感想を語りあった後、
「日本ではまだ上映されていないんだよ」
というと、二人が目を丸くして
「どうして?!」

思わずふっと心が和んだ。
「日本は、原爆の唯一の被爆国だからね…」
すると二人は沈黙し、しばらく考えを巡らせてから、
「そうか…。そうだよね。そりゃそうだよね」
と、その無知を詫びた。

私としてはむしろ、ユダヤ人である彼らですらも、他の民族が負った傷に関しては、ある意味、無邪気に知らずにいられたという、私たちが彼らにしてきたのと同じ態度をとれたことに、なぜかとても安堵した。
他民族の痛みにまで瞬時に共感できてしまったら、それこそ身が、心が持たないだろう。

哀しみの構造に終わりはないのだろうか。
いろいろと考える、そんな土曜の午後だった。

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