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不器用な健常者

私は「健常者」らしい。

私は昔から本当に不器用であった。
私は勉強はやや得意ではあったが、
学校行事や修学旅行となると、
団体行動が致命的に下手だった。
人間関係も苦手で、話せる人をクラスに数人だけ作って、
他の人は殆ど関わらないスタンスであった。

そんなだから、昔から私は自分が障害ではないかと疑っていた。
親が心理士だったため、幸いなことに家の本棚には
障害に関わる専門書がいくつもあった。

だから、私は一生懸命に本を読んだ。
こういうと怒られてしまうかもしれないが、
私は本気で自分の病名を探していた。

自分の不器用さに病名がつくことを望んでいた。
もし、病気ならば、学問で研究がされており、
先人の知恵を借りることができると考えたからだ。
障害であれば、何らかの補助や職業訓練を受けられるかもしれない。
そんな淡い期待も持っていた。
しかし、私の思いも虚しく、
結局それらしい病名が見つかることはなかった。

そんな思いは学生時代から社会人になっても変わらなかった。
どうして私はこんなにも不器用なのだろうと思った。
だから、私は思い切って心療内科を訪ね、検査をしてもらった。

何回かの通院後わかったことは、
私がただの不器用な健常人であることだった。

正確に言うと自閉症スペクトラムのチェックリストでは基準値を超えていた。ただ、先生曰く、健常人でも内気な性格は高く出てしまうことがあるそうだ。そして、先生の経験上、私の喋り方は自閉症スペクトラムらしさが特にない、とのことだった。

「スペクトラム」の名の通り、
障害と健常はグラデーションでつながっている。
そのため、障害の診断を受けなくても、グラデーションの中で障害よりにいる健常人という人も、一定数いることになる。

大学生の時に思い悩んだ時も、
大学付きの心理士に似たようなことを言われたし、
そもそも親が心理士のため、その親が気づかないのであれば、
私は障害ではないのだろう。
人騒がせで申し訳なく思うが、
既に1人の精神科医と2人の心理士に健常と診断されているので、
もうこれ以上じたばたするのははた迷惑もよいところである。

私は自称読書家だが、いまだに自分の生きづらさの参考になる本や知恵を見つけていない。周りの人は、もう少し人とかかわったほうが良いよ、という。人と関わるのが嫌で人を避けたら、もっと人と関わるのが億劫になり、コミュニケーション能力も落ちていくのは至極当然のことだ。

それが分かった上で、人とは本気で関わりたくない。
平穏に一人で暮らしたいのだ。
人と関わると、マウントの取り合いに疲れる。
有益な話が聴けるときもあるが、愚痴は疲れる。
私だって聖人じゃないから愚痴はいう。
でも、極めて少ない方だと思う。
なぜなら、他人にうまく興味が持てないからだ。

あなたはあなただし、私は私だ。
それでいいし、言葉を交わすだけで、
それまでの過去をくみ取れるわけもない。
どんなに親しい人だって、私が知っているのはほんの上澄みだけで、
その人の人生における思想を理解することは互いにないのだ。
というより、そんな深みまで入らなくても、日々の会話はできる。
それで十分だ。

「人と関わればいいのに」という言葉が本当に苦手だ。
逆に一人で孤立して悲しいとか寂しいみたいな感情が、
いまいち私には理解ができない。
有象無象の感情の渦巻く人間社会の渦中に飛び込むのは、
私には自殺行為に等しい。
そういったものをひらりと交わす大人に確かに憧れていたが、
私がそれをするには、あまりに不器用すぎた。

いつか一人で穏やかに暮らせるようになりたい。
不得意なことを避けて得意なことができる環境を作るのは、
逃げだと言う人もいるかもしれない。
それならそれで構わないと思う。
ただ、私は私なりの活路を必死で探しているだけなのだ。

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読んで頂いて、ありがとうございました。それでは、また。

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