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画面を超えた場所に薄っすらとそこにある自分

パソコンで修学旅行東照宮私はそこに薄くあるかな。


この前NHKのニュースを見ていたら、修学旅行に行けない子供達のために教員が日光東照宮を紹介する授業をリモートで行っているという。その授業を受けたある小学生がインタビューで言ったコトバが忘れられない。

「私は日光に行っていないんでけど、薄く自分がそこにあるような気がしました。」

小学生とは思えない哲学的なフレーズだと思った。いや、むしろ小学生のほうがこのような感覚的なことを言えるのかもしれない。

自分は日光にいなくても、画面を通して日光にいるような錯覚をしてしまう。頭と視覚だけで状況を理解しようとすると自分という存在も薄っぺらく感じさせてしまう。

みんな一度は「もしかしたら自分の人生は全部夢で死んだら目がさめるんだ」なんていうくだらない妄想をした経験があるだろう。

しかし、リモート化した世界というのは夢は似ていると思う。現実と非現実の間にある薄っぺらいけどある、でも本物ではない何かそれが「夢」だったり「リモート」なだったりする。

私も最近はほとんどリモートで授業を受けたり就活をしたりする。でも現実味は薄くなって、本当に自分が相手に見えているのか不安に思ったり、どこか寂しさを感じる。

画面の奥にいるのは「薄い自分」であるが、本当の自分はどこにいってしまったのであろうか。

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