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マラソンランナーに声援を送っているうちに

今日、開催された「福岡国際マラソン」は、毎年12月に開催されるガチのランニングレースである。
ドメインこそ fukuoka-marathon.com だが、11月に開催された市民参加型の「福岡マラソン」とは違って、不思議なデッサンのピカチューや毛深い妖精は走らない。

私はマラソンファンでも何でもないのだが、コース近くの場所にいられるうちは、できるだけ沿道から応援してみている。徹夜明けの時もあれば、極寒の師走も、ソロもあれば複数も、テレビ中継に映り込んでいたこともあった。インターネット未開の頃は、『このスピードなら、一般の集荷が終わった後でも、福岡空港前の集荷センターまで荷物を届けられて、確実に最終便に間に合うはず…』などと、意味不明な妄想と感心もしつつ、かなりの回数をどこかで静かに見守ってきた。

耐久タイムレースとしてのマラソンは、個人同士の闘いを長時間に渡って見せつける、ドラマチックなロードムービーだ。選手の過去と未来の時間が、2時間ほどに高密度で圧縮される。「がんばる」「がんばらせる」ことをあまりよしとしない自分も、思わずそう声援を上げたくなるほどだ。

しかし、何と叫ぶかや、そう実際に声を発しないまでも、自分は今年、誰かを、何かを懸命に応援できたか?相手にまで届くように。または、届くかどうかなど考えずとにかく一心不乱に。
いつも、そう感じるきっかけは、沿道の子供たちが力一杯応援している姿だ。その姿は、後方のランナーにも見えているんだろうか。高校時代の10km走で、ゴール前にバテバテだった正門前の坂道で、どこかのクラスの女子たちからの声援で、なぜかラストスパートできたことを覚えている身としては、送られる声援が生む不思議なパワーを信じないわけにはいかない。

声援にもエネルギーが必要で、抑えきれない衝動から声援を送っているうちに、自分の内側も走りたくなるほどかき乱されるのだ。全部最後まで走りきれずに途中でリタイアする羽目になりそうなランナーも、『あの先の信号まで行ったらリタイアするが…もしそれができたら、もう一つだけ先の信号までぐらいなら…』と考えることで、一歩を進められる。

毎日の日々は、案外、そんなことの連続なのかもしれない。声援を送る相手とランナー、どちらもが自分自身の場合も含めて。このコスプレや着ぐるみだけは、ゴールしてもなかなか脱ぐことができないのだけれど。

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