【生活は患い】「かわいい」にやさしくなる

 今でこそ、好きに着ていきていきたいと言えるくらいには、服が好きだと言えるようになった。しかしそれも、ここ2、3年の話だ。
 DMで、直接会ったこともなかった大学の先輩から、原宿に行くお誘いを受けた。その頃の僕は(今もだが)、ファッションに疎く、そのくせしてロリータだのパンクだのが好きだった。自分で着る勇気もないくせに。
 まだ毛先が紫だったので、ユニクロのヒートテックの大判ストールをケープ代わりに、白のタイツに紺色のアクシーズのスカートを身につけて精一杯の理想の着こなしをした。
 待ち合わせ場所にいた先輩は、すごく「かわいい」で溢れていた。持っているものが違いすぎて、僕は直視出来ず、先輩のビビアンのアーマーリングと頭についてたリボンだけを覚えている。
 さらに驚いたことに、先輩は自分が気に入ったアイテムに「かわいい」を連呼していたのだ。僕にはそれが衝撃だった。
ひとには「かわいい」を向けるのに、自分には「かわいい」をあげられずにいたのだから。

 回顧する。
 生来、強迫観念が強い性分を持つ僕は、人に言われたことを気にしていた。
「自分の名前にちゃん付けするなんて可愛いと思ってるの?」「おとこおんな」「フリルは恥ずかしいからやめて欲しいなぁ……」「先輩はかっこいいいですもんね!」

 「かわいい」が自分には似合わないものだと思っていた。それは、性別に嫌悪感は無いものの半身欠けているような物足りなさを感じ続けていたことと、「女」になっていくことを厭う気持ちも影響していたように考える。

 僕自身、「かわいい」をまだ受け止めきれずにいる。女の「かわいい」は分からないし、あまーい「かわいい」は好きじゃないし、男の中の「かわいい」も好きだし……。
 「かわいい」との向き合い方のひとつとして、「美」を自分の中に持つことにした。基準は、イノセントな「かわいい」だ。神聖で、ほわほわしていて、触れれば散ってしまうような儚さも内包するもの。それらに囲まれて生きていくことが、僕の当面の「かわいい」との付き合い方だ。

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