機械を用いて思考を鍛えられるか
AIが文章を作ってくれる時代になった。ちょっとしたお知らせ程度なら、Aiに頼んでしまった方が、すっきりと読みやすい(ポイントがはっきりした)文章になる。そんな日はもう目前だ。
昔のSF映画にあったように、人はそのうち声も文字も使わず意思をやりとりできるようになる。思考をそのまま信号に置き換え、相手の脳に直接送る。そんなことを子どもたちに言うと、「自分の考えたことがだだもれになるようで怖いと言う。見たくない・聞きたくないものも脳に送り込まれそうだし、と。しかし私たちが「声」で伝える場合も、頭の中で考えたことそのままではなく、いくつかを選択して伝えているのが「普通」のように、電気信号で送る「思念」も、取捨選択し演出し伝える能力を「普通」に持てるようになるだろう。まあ、私はその時代までは生きていない、きっと。
考えたことを、AIが補強しきれいに整えて文章にしてくれるようになったら。「正しく書く」能力も、文法の知識も、私たちは持つ必要なくなる。今でさえ、漢字を書けなくったって問題はない。今私がこうやってPCで文章を書いている間も、「正しい漢字」をPCが提案してくれている。私はそれを選択するだけ。
機械がかなりのことを補助してくれるようになると、結局「差」として明確になるのは、「何を・どう考えるか」を「その人」が出せるか出せないか、になる。文章はAIが整えてくれる。しかし「何を」整えるかを指示しなければならない。思いつかない、となったら文章は生成されない。考えの内容まで「選択」するようになったら、みんな似たり寄ったりの「差のない」世界が待っている。
面倒なことは機械に任せ、「何を・どう捉えるか、考えるか」に人は集中できる。そう考えるとよい面もあるが、その「考える」時間を『機械が作るいたせり尽くせりの世界』の中で育つであろう人間は、自ら持てるだろうか。甚だ疑問だ。すぐに答えを見つけ出す練習では育たない、長い時間をかけて多角的に検討し、考え続けるという「試考の体力」。そんな苦しい時間を、人は自ら持ち、何かを見出そうとあがけるだろうか。あがける人間と、それができない人間との差が今後もどんどん広がるのだろう。
「文章を、自分の手で書く」というのは、その「試考の体力(耐力)」をつける貴重な時間だ。先ほど述べたように、いくら機械が助けてくれると言っても「考えを生み出す」力がなければどうにもならない。何も見ない・何にも疑問を持たない・意見は批判することだと勘違いしている・もしくは意見は「よいこと」を述べるものだと思い込んでいる、そんなふうでは「機械を使いこなして新たな価値を作る、これからの人間」にはなれない、と私は思う。
作文教室を「文章の書き方を教えてもらうところ」だとお思いなら、それはちがう。もし「書けない」のなら、その理由は、言葉を知らないからではなく、記述のルールを知らないからでもない。その人が何をどう考えているのかが、よくわかっていない(思考を追えていない)のが大きな原因の一つであることが多い。
「何を・どう感じているか/どう捉えているか/どう表現するか」を自問し、試し、表現してみる。その繰り返しが、表現力を鍛え、考えを生み出す力を育てる。
試考すること、そして生まれた考えを頭ごなしに否定されず、もっと深めたり分厚くしたりできること。そういう場所がいたるところにあればいいが、今はまだ、それほど多くはない。ように思える。
私の場はその一つでありたい、と思う。
「文章を作る」ことは、人を鍛える。だから、どの年代の人にも、どん立場の人にも、一から書くことを試してもらいたい。ずっとずっとそう思って文章講座を続けている。時代がどう変わろうと、ニンゲンが思考し表現する存在であるなら、その必要性はきっとこの先も、ずっと変わらない。
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