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something between 0 and 1

グラデーション(gradation)

0と1あるいは白と黒、ものごとの「間(あわい)」に存在する様々な階調のことである。

世の中を蔽う、悪と正義、人工と自然、といった二元論のありかたがどうも腑に落ちないのだ。

面白いか面白くないかといった自分の中のにあるものの価値判断なら二元論で割り切れるのかもしれないけれど、現象や状態や相対的な領域を無理やりどちらかに割り切ってしまうことに、畏れのようなものを感じることはないんだろうかと思う。

川上未映子はこんな風にいっている。

「私はひとつの考えに対して、違う角度から光を当てることが大切だと思っています。今はディベートの技術が重視されていますが、相手を言い負かす話し方はあまり好きじゃない。それよりひとつの意見を抱いたら、真逆のことを考えてみたい。その肯定と否定との間を行き来する運動の中に、正しさはあると思うんです。」

間違っているものの中にも正しいことはあり、正しいことの中にも間違っていることがあることを認識しつつ、正しいと思うことにYESを唱え、間違いと思うことにNOと訴えること、そして時には正しいと思うことにちょっとNOといってみたり、間違いだと感じつつ賛成してみたり。

これってグラデーションじゃないのか?

またたとえば、保坂和志の「カンバセーション・ピース」という小説で引用されていた異端の神学者テルトゥリアヌスのこのコトバ。

「神の子が死んだということはありえないがゆえに疑いがない事実であり、葬られた後に復活したということは、信じられないがゆえに確実である」

この、「不合理ゆえに信ずる」という彼の思想もひょっとして、虚と実の間(あわい)のグラデーションかもしれない。

あるいは、建築家の藤本壮介はちょっとカッコよく、

「壁を立てることは、空間を0か1かに分けてしまう。 でも本当は、空間には0と1の間のグラデーションの豊かさがあるはずだ」
なんていっているけれど、問題は、そのあるはずのグラデーションの「豊かさ」ってやつをどう表現するかだろう。

そしてやはり、谷崎の「陰翳礼賛」に行きついてしまう。

この希代の美達者は、日本古来の空間を彩る光と陰のグラデーションを、たとえばこんな風に表現している。

「私は、数寄を凝らした日本座敷の床の間を見るごとに、いかに日本人が陰翳の秘密を理解し、光と陰との使い分けに巧妙であるかに感嘆する。なぜなら、そこにはこれという特別なしつらえがあるのではない。要するにただ清楚な木材と清楚な壁とをもって一つのへこんだ空間を仕切り、そこへ引き入れられた光線がへこみのここかしこへ朦朧たる隈を生むようにする。にもかかわらず、我らは落とし懸けの後ろや、花生けの周囲や、違い棚の下などを埋めているやみを眺めて、それがなんでもない陰であることを知りながらも、そこの空気だけがシーンと沈み切っているような、永劫不変の閑寂がその暗がりを領しているような感銘を受ける」

that's it.

この微妙なニュアンス。

こんな風に考えていくと、この世界のすべてのものが、さまざま多様なグラデーションの連続体のように思えてきてしまうんだ。

「赤」だと思っていたのに、気が付いたら「青」や「黄色」になっている。いつの間に色が変わったのか、その境界線が判らない、そんなグラデーションに憧れる。

再録 : something between 0 and 1   /  20080628

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