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プンクトゥムは、ちょっとやっかいだ。

愛猫ハルの背中に蚯蚓(ミミズ)のようなものがくっついている。
なんだろうと思って摘んでみるが、その柔らかな物体が猫の背中に食いついているような感じで、なかなかとれない。 なおも力をこめて引っ張ると、その蚯蚓のような、あきらかに生物の気配をもつ紐状の物体が、ズズズっと、ハルの背中から延びて出てきた。

昨日の夜の夢の話。
むかし「Surrealistic Pillow」というタイトルのレコードがあったが、まさに、そんな感じだった。

□ 明るい部屋 - 写真についての覚書 | ロラン・バルト | みすず書房 | 1985

この本にでてきた「プンクトゥム(punctum)」という言葉が、頭から離れない。
その奇妙な響き、「小さな裂け目」などという曖昧な語義、そしてその言葉が抱える概念。

その日の超現実的な悪夢のことや、この不思議な言葉のことを考えているうちに、シュルレアリスムという言葉にしても、このプンクトゥムにしても、ひとつのキャッチコピーのようなもの、あるいはすごくうまいネーミング、とでもいうべきものじゃないかと思えてきた。

「ステゥディウム(一般的関心・作者の表現意図)」の場をかき乱しにやって来るこの第二の要素を、私は「プンクトゥム」と呼ぶことにしたい。というのも、プンクトゥムとは、刺し傷、小さな穴、小さな斑点、小さな裂け目のことであり ― しかもまた、骰子の一振りのことでもあるからだ。ある写真のプンクトゥムとは、その写真の内にあって、私を突き刺す(ばかりか、私にあざをつけ、私の胸をしめつける)偶然なのである」

アーティストが作品を見てもらわなければ何も始まらないのと同じように、批評家だって、まずその文章を読まれないと話にならないわけだから、自分が発見した新しい概念を表現する独自の「言葉」を造りだすことはとても重要なはずだ。

ピカソやウォーホール、横尾忠則や篠山紀信といった一流と呼ばれるアーティストたちが、総じて営業上手(といっては語弊があるかもしれないが)なように、このバルトを始めとして、ソンタグやストロース、そして小林秀雄や吉本隆明といった批評の名手たちも、その批評眼を鮮やかに現すキャッチーな言葉を拵えるのがすこぶるうまい。

批評家にとっては、ものが視える=言葉の発見で、それこそが彼らの仕事だともいえる。
もっと下世話に言えば、「言うたもん勝ち」の世界。

こういう言葉を発見できるのが、すでにひとつの才能なんだろうな。

ところでこの「プンクトゥム」、大雑把に言うと、ひとつの写真において作者の意図と離れたところにある自分だけの「ツボ」ということなんじゃないかと思うけれど、だとすれば、それは写真だけに限定されるものではなく、他の表現、たとえば絵画や映画、あるいは詩や小説といった文芸にまで拡がる普遍性を持っているということになるんじゃないだろうか。
しかもそれには、あらかじめ用意されるコード(モノサシ)がまったくないわけだから、きわめて恣意的なもので、見る者によってその在り処が変わってくるということになる。

「それゆえ、プンクトゥムの実例をあげてゆくと、ある意味で私自身をを引き渡すことになる。」

プンクトゥムは、ちょっとやっかいだ。
それは確かにとても面白いゲームなんだけど、これに嵌ってしまうと、見るもの読むものすべてにそれを探すようになってしまうのだ。

そしてじつは、すでにこのプンクトゥム・ゲームに侵されてしまっている。

猫の背の蚯蚓の悪夢を見たのも、ひょっとしてそのせいだったりして。

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