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Gonoï VS 暇空茜

 友人からの依頼があったため,Gonoï 氏と暇空氏の間で生じた諍いについての分析を掲載しておこうとおもう。

 さて,文脈を読めば,Gonoï 氏が「私は,山上の諸発言を現象(分析対象の謂であろう)として見ている(諸発言に分析対象を超えた身分を与えない)」旨の意見をしていることは容易に読めるはずだが,暇空氏は,恰もここで Gonoï 氏が「私は現象だ」と主張したかのように誤読を犯したようだ。*

 諸言動を以て彼の心情や動機を分析する手法は,精神分析学や犯罪心理学の臨床でも伝統的に採用されてきた。

 山上の諸言動を「現象として見てい」る旨と共に貼った Gonoï 氏を,山上の発言を鵜呑みにしている旨を以て非難する暇空氏の態度も,酷い誤読もしくは邪推を孕むと評せざるをえない。Gonoï 氏のこの態度は,山上の発言を鵜呑みにしていなくとも,無理のない関心と現実的な期待値に基づいて,有意味に実行できよう。

 ところで,フッサール現象学における「現象」の謂でこれを用いていたのであれば Gonoï 氏にも誤用が認められる。この「現象」はレアールな分析とは相性が悪い。

 むろん本項の冒頭で Gonoï 氏の「現象」を「分析対象」と私も翻訳したように行間は読めるが,このコンテクストで「現象学的還元」を持ち出すのであれば,「現象」は『事象』や『分析材料』に表現を改めた方が正確になるようにおもわれる。

 Gonoï 氏の「『まなざしの地獄』[……]と同様の手法を採っている」という自称を信ずるなら,この誤用はもはや明らかだ。

『まなざしの地獄』の実績は,永山の諸言動に現象学的還元を施してしまっては(すなわち,あれらをフッサール現象学のタームとしての「現象」に定位させてしまっては)成しえない。当著は,寧ろあれらに対する解釈の精妙化を試みたものであろう。

 フッサール現象学の文脈では,「わたしという現象」と判断出来てはならない。「わたしという」という判断は留保(エポケー)されなくてはならない。

 総評をしてみると,既述したように暇空氏も誤読が酷いが,Gonoï 氏は「現象学的還元」や「現象」というタームの濫用が酷いように私にはおもわれる。

 * むろん,Gonoï 氏も述べたように彼自身も「現象」たりうる。ここで私が指摘したことは,暇空氏が指摘を向けたテクストでは Gonoï 氏は然様な含意を主張していないはずであり,しかも本旨が見逃されているという要旨である。

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