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【読書感想文】世界は愛で溢れているし、俺はどうしようもなく仲間に入れて欲しいと思ってしまった。

はじめに

WEBラジオ「かまってみくのしん」を聴き始めて、3年ほど経つ。

「いったい何の話をしているんだこの人たちは」と感じていた内輪ネタも理解できるようになってきた頃、ラジオ内でみくのしんが『走れメロス』を読む回を聴いた。

一文々々(いちぶんんんんん)に感情移入しながら時間をかけて読み上げ、冒頭数ページで涙を流す声を聞いて腹を抱えて笑った。

そこから記事になり、バズり、その記事もシリーズになり…あれよあれよという間に本になった。

それが【本を読んだことがない32歳がはじめて本を読む】である。

読書風景が本になるというみくのしんにしか出来ない芸当、入れ子構造のような事になっており少し面白い。

俺は「買おう」「買おう」と思っていたが特に理由もなく手を出せていなかった。

先月末、Amazon購入限定特典の応募期限が迫っているとのアナウンスで尻を叩かれ、購入に踏み切った。

終了済み

音声にも視聴期限があるので、それまでに聴かなければ。

今日の仕事の休憩中に読み進め、読了した。

そこで感じた事を読書感想文として書いてみる。
九月に入り暦としての夏は終わってはいるが、やり残した宿題として。

自分の過去と重ね合わせて、自分の都合で解釈し、文章を連ねていく。

とはいうものの、本編に触れた感想はもう出尽くされている気がする。

だからといって、自分が感想を書かない理由にはならないのだが、ただ本編をなぞり箸にも棒にもかからないような感想を書き連ねていくだけでは面白くない。

主に俺が書くときに楽しくない。

なので、本編の内容に関しては是非一読願いたい。

軽く本編に触れるとすれば、
『ウルトラマン…(曾)』
『毎日々々(まいにちちちちち)』
『俺のブドウを落とすなよ!』
『剣を飲み込む魔法使を呼ぶな』

のくだりは本当に面白いので、ここは読んで欲しいとしか言えない。
是非購入を検討していただきたい。

それはさておき。

俺が真に感情を揺さぶられたのは二人の「あとがき」だった。

以下にこの本のあとがきについての感想と、自分語りを書き連ねていく。

なんとなく暗い心情を吐露しているので、あまりハッピーな感想ではないかもしれないけれど、よろしければご覧ください。

よろしくお願いします。




【みくのしんのあとがき】の感想



彼の自己評価と、劣等感の話。

「俺の話してる?」と思ってしまった。


俺もそうだったから。
というか現在もそう思ってしまっているから。

俺は基本的に、根本的に自分に自信が無い。
「俺のやることなすこと、全部間違ってる」
と思っている。

例を挙げると
「過去の自分の残したメモが信用できないので、何度も確認作業を行う」
「自分の判断に自信がないので、一人で大きな決断をできない」
「未来の自分が信頼できないので、準備と確認を深夜まで行う」
などなど。

見れば見るほど自意識過剰で嫌になってくる。

「世界は君中心で回っているんじゃないんだよ?馬鹿?」

↑誰が言ってんだ?
でも、ごもっともである。

自分を貶めて辱める侮辱に関しては、ずっと饒舌になれる。

なんなら得意分野だ。
些細なことがきっかけとなり、ここ5年間でめきめきと上達した。

これは結局のところ、やっていることは自傷行為と変わらない。
自分がどれだけどうしようもなくて恥ずかしいかを再確認して安心しているだけに過ぎない。

そんな俺だからこそ、
「もしかしたら、みくのしんも俺と同じかもしれない。」
と思ってしまった。

表面的な性格とも違う、自分に対しての性格というか。
自分をどう評価して、どう扱えるかという点において。
少し共通点があるのではないか、と感じた。


そんな彼の成功体験として、「読書」がある。
友人の補助はあれど、自分なりの(彼にしかできない)読書という体験が。
単なる読書ではなく、それが他者から「褒められた」ことで彼の劣等感をぶち壊したのだとしたら。


だとしたら。
こんなに、羨ましいことはない。


俺がどれだけ何かを作り上げようが褒められることで俺はまだ満足できない。自分が認められたと思うことができない。俺は、俺の劣等感を壊したくて壊したくてたまらないのに。どうしたらいいんだ。

自分には持ちえない何かがあるとするなら、それはかまどだろう。
みくのしんにとってのかまどとは、「本である」と以前見たことがある。


https://omocoro.jp/bros/kiji/433913/


ここまで信頼できる他人と、俺は出会っていただろうか。
ここまで愛せる人間と、俺は出会っていたのだろうか。

ここで言う愛は、いわゆる「友愛」に近いものだと思っていただきたい。
多分ややこしくなるので。

無論、数年来の信頼関係あってのものなのだろうが。
だからこそ高尚なものに見えて、だからこそ美しいと思える。
俺には、それが無いから。


だからといって、同じような関係の人間は意図して構築する関係ではないとも思う。

それを含めた、運。
巡り逢わせ。

「運命」とは言い得て妙だが、俺の不足した語彙ではここまでが表現の限度だろう。

彼を羨んでいる場合ではないのは理解している。
皆、何かに支えられて生きている。
それは人間だけではなく物語や、作品に支えられている人もいる。

自分のそれを見つけられるなら、どれほどいいだろうか。
でも、それが仮に見つかったとして。
自分が信頼できる何かに体を預けられるだろうか。
俺はそれを信頼できるのか?

今はそれが怖いと、思ってしまう。

俺は王のようにメロスとセリヌンティウスの友情を見て、人を信じられると言い切れるのだろうか。
改心し、自らの心を戒められるだろうか。

俺は未だ自分を信頼できずにいる。

俺は俺の味方であるべきなのに。
俺は何時まで俺の敵でいれば気が済むんだ。


でも、たとえこれが「普通」じゃなかったとしても、「普通じゃない」を抱きしめて生きていく。

言いきらない、少しぼんやりした言葉でみくのしんのあとがきは締められている。

それが彼らしいといえば彼らしく、自分の心に残る文章だと思った。

俺の劣等感もいつか、裏返る日が来るんだろうか。
来るとしたら、どんな形なんだろうか。

俺が誰かの何かになれるなら。
誰かの何かを作れるなら。
もう少し創作を続けてみようと思えた。



【かまどのあとがき】の感想


彼の「一房の葡萄」にまつわる思い出から始まるあとがき。
かつて彼が読んで感じた納得のできなさを、みくのしんが租借し解釈することで、数十年前のもやもやを晴らすことができた。


本に正しい読み方は無い。
それは当たり前の事なのだが。
何かを見て「こう感じるべき」とか「こう思うべき」というのは全てにおいて決まったことではないし、誰かに決められるものでもない。
自分の中で感じたことは、数ある一つの解釈として自分が持っていてもいいのだ。
人それぞれに解釈があるから。
だからこそ、一つの物語にも好き嫌いが分かれるのだが。

これは本だけに限った話でもないと思う。
絵画、曲、ゲーム、映画などの「観方」に関しても言えるんじゃないか。

人は今まで自分が生きてきた事でしか物事の是非、優劣を見ることができない。
だからこそ他人の気持ちを考える必要があるのだが、自分一人ではたどり着かないところに他人の心はある。

だから俺は物語が好きで。
あるいは、人の気持ちが綴られた本が大事で。
あるいは、人の想いが綴られた手紙が大切で。

必要とまではいわないが、あれば心が豊かになるからこそ、大事にしたいと思える。

だからこそ、どんな観方も間違いではない。
と、信じたい。
これが本当に正しいと言い切れるほど、俺はまだ大人じゃないから。

でも、もしそうだとしたらかなり嬉しい。


みくのしんの本の読み方を見ると、本当に楽しそうで。
読書を楽しむ方法としてはあまりにも異例で、だからこそ見ていて気持ちがいい。

一つ一つ取りこぼさないようにすべての文字を理解する読み方でもいい。
なんとなく読み流してもいい。

読書という行為の幅広さ。自由さに気づかされた。


彼もみくのしんに対して、同じような信頼を持っているのだろうか。
締めの数行にみくのしんに向けての言葉が書かれている。

それは「本を好きになってくれた」ことに対しての感謝だった。

信頼、というか彼を信じていないと出ない言葉だと思う。
彼の本に対する愛と、みくのしんに対する愛の言葉であると感じた。

再三申し上げるが、「友愛」である。

当たり前だが、彼もまた俺にないものを持っている人だ。
だが、悔しいとまでは違う。

やはり羨ましいと感じてしまう。

これは、分不相応な欲望なのだろうか。

やはり今も分からないままである。



終わりに


何かを好きになる気持ち、というのは自然と発生するものだと思っていた。

だが最近、何かを「好きになる努力」が必要なこともあると理解した。

今一般的に使われる「推し活」だが、俺はそれが羨ましいと思った。

全員が全員「推し」が居るわけでもなければ、何かに対する情熱を持っているわけではない。
だからこそ、何かに夢中になっている、楽しそうな人を見ると。

羨ましいと思ってしまう。

最近、観た物語のテーマに「愛」を見出すことが多くなった気がする。
キンプリ然り。2.5次元の誘惑然り。【推しの子】然り。宝石の国然り。

今回この本を読んだ総評としては、やはり「愛」だと感じた。

お互いを信頼しあえる仲で、支えあえるのも。
本に対する思いも、感謝も含めて。
愛と呼べるんじゃないかと思った。

羨ましいと思ってしまう。

俺は何に焦っているんだろう。

自分の理解できないところで、もしかしたら。
世界には「愛」が溢れているんじゃないか。

俺の見えてないところで、誰かが誰かに愛を与えていて。
俺以外みんなが幸せなんじゃないか。

俺は俺が信用できないから気づいてないんじゃないか。
俺が俺の近くにいるから気づけないんじゃないのか。

俺は未だ愛を享受できずにいるんじゃないか。


疎外感。


俺だけが、仲間外れなんじゃないか。





不安は尽きない。


今はただ、彼らの残した薄ぼんやりとした希望の言葉だけでも抱えていこうと思う。

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