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親ガチャと言うけれど、仏陀はそれを追求したのでは?


仏教はカースト性のあるインドで発生した。
日本にはカースト制と言うほどきっちりした階級区分がなかったけど、親ガチャというのはどんな親に生まれてくるか自分ではわからない。ふとそこに気がついたら生まれていたと言う事を意味しているのだろう。

インドのように区分がはっきりしていると最低階級に生まれてくるのと、王族で生まれてくるのとで途中変更のできない場合、なぜなんだろうと言う気持ちが日本よりももっと強いと思う。

なぜ自分はこの階級に生まれてきたんだろう。

さらに考えると
家畜だって鳥だって虫だって人と同じように1つの命を持って生きている。もしかしたら自分はミミズに生まれて来とったかもしれない。そう思うと、意味もなく、ミミズを殺すとか弄ぶとかするのはかわいそうに思う。だって将来自分はミミズに生まれてくるのかもしれないのだから。
こうして仏教は生きとし生ける者皆に優しい感情を持っている


それはそれとして、なぜ今自分はミミズではなく人なのだろう。
これを突き詰めて考えていると、前世つまり生まれてくる前の自分とは何だったんだろうとか、来世つまり死後の世界はどこに生まれ変わるんだろうと言う疑問が湧いてくる。

そこで考えついたのが、良いことをすれば良い来世が待っている、悪いことをすれば悪い来世が待っていると言うこと。
そうであって欲しいという願いが込められた理論が生まれる。

そうすれば、今の境遇は自分の前世の結果である。
因果応報なのだから、こうあるべき姿に今あると考える。

つまり親ガチャでラッキーな人とアンラッキーな人があるけれど、その責任は生まれてきた自分の前世の行いの結果である。
そして、与えられた人生を立派に生き抜いた場合、次は親ガチャで、今よりラッキーな場面に生まれてくる可能性が高いと夢見ることができる。
それが仏教の、正確にはヒンズー教の、他の宗教にない教えである。

自分の目で見て哀れだと思う人がいたとしても、その人をいじめてはいけない、侮ってもいけない。なぜなら、その人はその境遇において立派に生きる可能性があるし、その結果、次にうんと高いカーストに生まれ変わる可能性もある。またそれをいじめたり侮ったりした場合、自分は来世において獣や虫に生まれ変わるかもしれない。

今の世界、金を追求ることを推奨し、金持ちは貧乏人より偉いとする思想があるようだけど、果たしてそれは良い考えだろうか。苦行して立派な行動をする人が偉い人かもしれない。そんな教えを日本は伝えていくべきだと思う。


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