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傾聴するということと、いくつかの本

 勤務校で担当する中学三年生に、「傾聴」というテーマでいくつかの本を紹介することにした。

 傾聴するということ。それは届けようとする言葉に耳を傾けることだ。
 先日、辻村深月『かがみの孤城』(ポプラ社 2017年)を読んだ。辻村深月を知る人は多いだろう。長編小説『凍りのくじら』もよく読まれたし、映画『ドラえもん のび太の月面探査記』の脚本を担当したことでも名をあげた。その辻村が2017年に刊行し、2018年の本屋大賞を始め各賞を受賞し、100万部以上を売り上げたのがこの『かがみの孤城』だ。

 主人公は中学校1年生の少女「こころ」だ。醜悪な心を持つ同級生にからまれ続け、こころは学校に行けなくなった。この物語はこころの心が回復するお話になっている。そのこころの視点で描かれる「城」のメンバーとの会話と同級生や担任との会話が対照的で、印象的だ。一部を引用してみよう。まず「城」のメンバーの一人であるアキとの会話から。

「それは、今も続いている、進行形の問題なの?」
 それまで黙って話を聞いていた、アキが言った。
 話の中で、こころは、だから学校に行けなくなった、ということまでは言わなかった。アキがそのことに触れてほしくなさそうだ、ということは重々承知しているつもりだ。
 アキがこころの話をどう聞いたか、わからなかった。こんなことはひょっとしたらたいしたことじゃないと、アキは思ったかもしれない。
 怖かったけど、こころはこくり、と頷いた。
「続いてる」と答えた途端、アキが食堂の椅子から立ち上がり、こころの頭をぐしゃぐしゃに、右手でかき混ぜるように、撫でた。
「え?え?」
 戸惑いながら、髪が乱れたまま、顔を上げる。
「偉い」と声がした。
 目が合うと、アキの目がまっすぐ、こころを見ていた。優しく、いたわるように。
「偉い。よく、耐えた」
 その言葉を聞いた、瞬間だった。
 鼻の奥が、つん、と痛くなる。あれ、と思ううちに思考が止まる。奥歯をあわてて噛みしめたけど、間に合わなかった。
「あ、うん・・・・・・」
 頷くと同時に、俯いたこころの両目から、涙がこぼれた。

 このアキの態度が「傾聴」だ。
 黙って聞くこと。相手に思いを抱くこと。相手に揺り動かされたことを言葉や態度で示すこと。相手の心に寄り添うこと。
 傾聴とは、黙って聞いたり言葉や態度に示したりする部分については技術であるといえる。しかし心に寄り添うことなどは想像力のなせるわざで、技術というよりは心の大きさ、柔らかさといった領域にあるものだ。
 どうしたら心は柔らかくなるだろう。その答えの一つが本だ。本を読んで、自分では無い誰かを思うこと。そうして、他者を想像する力を伸ばすことだ。生徒たちには本を読み、心を柔らかく保ち、自分とは異質の誰かを受け入れる余裕のある人生を歩んで欲しいと思う。

 もう一つ、今度は担任との会話を引用しよう。このシーンは担任がこころの家にやってきて、こころに醜悪なからみ方をした「真田」について説明する所から始まる。

「誤解されやすいところもある子だから、こころにはつらく思えたこともたくさんあったと思う。だけど、話してみたけど、真田も心配しているよ。反省してーー」
「反省なんて、してないと思います」
 声が出た。
 熱い声の先が、細かく、震えていた。
 こころがそんなふうに言うと思っていなかったのかもしれない。先生が驚いた表情でこころを見た。こころは首を振る。
「反省してるとしたら、それは、自分が先生に怒られたからだと思います。私のことを心配してるわけじゃない。自分がしたことを先生たちに悪く思われるのが怖いからだと思います」
 息継ぎもせずに、一息に言う。自分がこんなに話せるとは思わなかった。伊田先生の動揺が伝わってくる。
「こころ、でもなーー」
「先生」
 お母さんが、こころと先生の間に入る。先生を見つめ、静かな声で言った。
「ーーまずは、こころの口から、何があったのかを聞いてもらうのが先じゃないんですか。その、真田さんというお嬢さんの口から事情を聞いたのと同じように」
 先生が弾かれたように顔を上げ、お母さんを見る。何かを言いかけたように見えたけれど、お母さんは先生に先を続けるのを許さなかった。

 担任の伊田先生は、こころの話を聞かない。真田から話を聞いて「事実」を確定しており、大人の自分が確定した「事実」を子どものこころに告げるためにこころの家にやってきた。だから、こころに聞く前に、こころに話す。おそらく彼にとって被害者に話を聞くことは自分が話をすることと同じ意味である。なぜなら、相手が自分とは違う人間で、一つの出来事から解釈が様々に生まれうることなど念頭にないからだ。自分の解釈が定まれば、それ以外の解釈は「間違い」だと考えるからだ。自分の理解を相手に理解させることが大事であり、相手を理解することなどそもそも前提に無いからだ。

 上記の伊田先生の振るまいを見て、僕は一冊の本を思い出した。これが今回紹介する二つ目の本だ。タイトルを『日本の反知性主義』(内田樹編 晶文社 2015年)という。

 ブリグジットに世界が驚愕し、ドナルド・トランプがアメリカ大統領選挙に当選してトランプ旋風が吹き荒れたのが2016年だ。多くの人がこの二つに、分断していく世界の未来を重ねた。そしてその翌年、東大の入学試験問題に採用されたのが、内田樹の編集した本書だ。この本の中で、内田樹は先ほどの伊田先生のような振る舞いを「反知性主義」と断じ、そのありようを次のように説明する。

 反知性主義者たちはしばしば恐ろしいほどに物知りである。一つのトピックについて、手持ちの合切袋から、自説を基礎づけるデータやエビデンスや統計数値をいくらでも取り出すことができる。けれども、それをいくら聴かされても、私たちの気持ちはあまり晴れることがないし、開放感を覚えることもない。というのは、この人はあらゆることについて正解をすでに知っているからである。正解をすでに知っている以上、彼らはことの理非の判断を私に委ねる気がない。「あなたが同意しようとしまいと、私の語ることの真理性はいささかも揺るがない」というのが反知性主義者の基本的なマナーである。「あなたの同意が得られないようであれば、もう一度勉強して出直してきます」というようなことは残念ながら反知性主義者は決して言ってくれない。彼らは「理非の判断はすでに済んでいる。あなたに代わって私がもう判断を済ませた。だから、あなたが何を考えようと、それによって私の主張することの真理性には何の影響も及ぼさない」と私たちに告げる。そして、そのような言葉は確実に「呪い」として機能し始める。というのは、そういうことを耳元でうるさく言われているうちに、こちらの生きる力がしだいに衰弱してくるからである。「あなたが何を考えようと、何をどう判断しようと、それは理非の判定に関与しない」ということは、「あなたには生きている理由がない」と言われているに等しいからである。

 伊田先生の場合はこころのお母さんに反論されたからすごすごと帰ることになった。もしお母さんがいなければ、自分が手にした正解を振りかざし、こころの心をすり潰すのに躍起になっていただろう。こころの主張を自分の理非の判断に何一つ影響させず、こころの生きる理由を奪っていっただろう。
 伊田先生も「反知性主義者」も、「傾聴」という態度を尊ぶ人の対極にある人たちである。

 最後に「傾聴」の先にある姿を示す本を紹介して、今回の投稿を終えよう。稲葉剛『閉ざされた扉をこじ開ける』(朝日新書 2020年)という本だ。稲葉剛という人のことを知る人もいるかもしれない。東大の学生だった時代にホームレス問題に触れ、その問題を知ってしまった責任を胸に、ホームレス問題に向き合うNPO法人を立ち上げた。以後20年、貧困に陥った人に寄り添い続けている。
 稲葉が耳を傾ける相手は、貧困に陥り、そもそも声をあげることすら思いつかないような状況に追い込まれた人たちだ。そうした人たちに寄り添い、声を聞き取り、想像し、そして代わりに声を上げる。本書はそうやって声を上げることで、社会の無関心や誤解によって閉ざされた扉をこじ開けてきた、稲葉の実践録である。

 稲葉は長年貧困問題に携わってきたから、公的機関から意見を聞かれることもある。その場を描いたシーンを一つとりあげ、稲葉の傾聴がどのように「その先」に結びついているのかを確かめよう。

 2018年2月14日、私は、「若年者をめぐる格差への取組」をテーマに開催された参議院国民生活・経済に関する調査会に参考人として招致され、意見陳述を行った。
 その場で私は、東京都の調査結果を紹介し、「ネットカフェ難民」が増えている背景に、都市部で住宅を確保する際の初期費用が高いという問題があることを指摘。その上で、従来の住宅政策を転換して、若者への住宅支援を強化する必要があることを国会議員に訴えた。
 私の問題提起に対する各会派の議員の反応はさまざまであった。私の提言に賛意を示してくれる議員も少なくなかったが、日本維新の会の議員からは「今は人手不足なので、仕事はある。そういう職場がありながらブルーテントになる。それを助けろといっても、ちょっと甘やかし過ぎなのではないか」、「もっとつらい仕事をすれば収入が増えるのではないか。つらいのが嫌だから、軽い仕事で収入が低いのではないか」といった質問があった。
 これに対して、私はこの議員が「ブルーテント」と「ネットカフェ」を混同していることからして、問題を誤解しているのではないか、と指摘した上で、「ネットカフェなどでの生活は決して楽な暮らしではなく、体調を悪化させている人もいる」と説明をした。
 大人の貧困に関する自己責任論の強さを再認識したやりとりであったが、私が議員たちに考えてもらいたかったのは、生活の基盤である住まいを確保することすら困難になり、若者たちが将来の見通しを立てられない社会に未来はあるのか、ということである。
 問われているのは若者たちではない。社会の側なのだ。

 このシーンに登場する「日本維新の会の議員」に代表されるように、現場を知らないままことの理非を判断し、国や地方自治体のあり方を決めていく人たちがいる。稲葉の仕事はその人たちに、その人たちの認識が現場から遠いということを突きつけ、耳を傾けさせることだ。それを稲葉は「扉をこじ開ける」と表現する。
 この稲葉の姿こそが、僕が理想として抱く「傾聴の先にある姿」である。耳を傾け、心を震わせ、行動に進む。光の当てられていない人々に光をあて、声なき声に耳を傾け、心を寄り添わせ、ともに歩み、世界に声を届けに行く。傾聴の先にある、行動する姿。僕はその姿に、子ども達が目指してほしい大人を見る。(以上)

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