5月13日 良経の雨
雨が止まない。梅雨がきた。
梅雨は五月雨ともいう。五月雨は本来は旧暦5月、現在の6月前後に降る雨だ。しかし今年はすでに梅雨入りが宣言された。今降っているコレは、ちょっと早いが気象庁公認の五月雨、ということになる。
長雨は気が滅入る。平安貴族に、五月雨の愛で方を学ぼう。
うちしめりあやめぞかほるほととぎす鳴くや五月の雨の夕暮れ
(新古今集・夏歌220・藤原良経)
「あやめ、ほととぎす、五月、雨の夕暮れ」と道具が多い。これらはなだらかにつながっているのだろうか?
一直線に単調に読むと、焦点が絞りきれずになんだか忙しい歌にも感じる。感動の対象は菖蒲の香りか、ほととぎすの声か、雨降る夕暮れか。
しかし情報には軽重がある。この歌で一番重いのは「ほととぎす鳴くや五月のあ」だ。同じ表現を用いた、平安時代から有名な古歌がある。『古今集』恋歌一の巻頭歌、つまり『古今集』の恋歌を代表する歌だ。
ほととぎす鳴くや五月のあやめ草あやめも知らぬ恋をするかな
(古今集・469・読み人しらず)
良経はこの恋歌を換骨奪胎し、五月雨の歌に仕上げた。
詳しくみよう。『古今集』の「ほととぎす鳴くや五月のあやめ草」を、良経は「ほととぎす鳴くや五月の雨の夕暮れ」に詠みかえた。
この「雨の夕暮れ」は唐突には思われなかったのだろうか。
大丈夫、ちゃんとイメージは連鎖している。まず良経は「ほととぎす鳴くや五月の」までで読み手に古今集歌イメージさせる。ひょっとすると「あ」の重なりまで意識していたかもしれない。すると読み手の脳裏には「(あやめも知らぬ)恋」に悩む人物が浮かび上がる。そして、一般的に恋に悩む人には雨がよく似合う(例えば小野小町の「花の色は」歌のように)。
並べてみよう。
雨に濡れて匂い立つ菖蒲
→菖蒲の時期に里で鳴くホトトギス
→ホトトギスから引き出される古歌の恋情の余韻
→恋情の余韻に同調する雨の夕暮れ
こうして「ほととぎす鳴くや五月の」と「雨の夕暮れ」とは、恋に悩む男のイメージを媒介に、世界が重なる。文脈には登場しないはずの男が、菖蒲の香りが漂う中でほととぎすの声を聞きながら、五月の雨の夕暮れに恋のため息をつく世界が完成する。この歌の焦点は、文脈に登場しない、恋する男であったのだ。
(現代語訳)
空気が湿る
菖蒲が匂い立つ
するとほととぎすがやってくる
鳴くのは五月、「菖蒲も知らぬ」と歌われた、あの恋歌の。
雨、夕暮れに。
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