【玉葉集】10 めでたい?松
数知らず引ける子の日の小松かな
一もとにだに千世はこもるを
(玉葉集・春歌上・10・小弁)
その数も分からないほど
野辺に出て引き抜いた 正月子の日の
小さな松よ
たった一本だったとしても
そこに千年の寿命がこもるのに
霞の歌は九番歌で終わりました。ここからは子の日の歌となります。
子の日には貴族達が若菜を摘んだり小さな松を引き抜いたりします。前者は七草がゆに引き継がれますし後者は門松として現代に残ります。どちらもたくさん和歌に詠まれてきました。ですがイベント詠だけあってどれも類型的なんですよね。個別具体的な感動を求めてしまいがちな近代人たる僕にとってはあまり面白みがありません。まあ斜に構えながら読んで見ましょう。
小松引きを王道的に歌ったもので圧倒的に有名なのは拾遺集の次の歌でしょう。
子の日する野辺に小松のなかりせば
千世のためしに何を引かまし
(拾遺集・春・23・壬生忠岑)
子の日を祝う
野辺に小さな松が
もしも無かったなら
千年の長寿のシンボルとして
一体何を引いたらよいのだろう
松は永遠の象徴です。永遠と言えば松。その発想がアクセルを踏みすぎて一周してます。「永遠と言えば松」から「松じゃなければ永遠じゃ無い」に。松が無かったら永遠のシンボルを見つけられなくなるんじゃ無いかって思ってるんですね。杉でも引っこ抜きゃいいのに。
また同じ拾遺集にはこんな歌もあります。
一本の松の千歳も久しきに
いつきの宮ぞ思ひやらるる
(拾遺集・雑春・1025・源順)
たった一本の
松が保つ千年の寿命でも
永遠のように感じられるのに
斎宮は その名に五本も木を抱き
遙か永劫を思わせる
一本に千年。五本で五千年。斎宮は五木の宮。ビバ5000年。
このかけ算感は小弁と通じます。
小弁は壬生忠岑歌のように長寿を願って松を抜きつつ源順歌に似た掛け算的発想を盛り込みました。しかしこの歌は無邪気に小松引きを喜んでいるのでしょうか?どこか反省的・自嘲的な響きを感じませんでしょうか。
というのも冒頭の「数知らず」引き抜いたことを末尾「を」で受けているからです。「何本も抜いちまったぜ一本千年の松を!」ではなく「何本も抜いたことだよたった一本でさえ千年分なのに」と歌うからです。
松を無数に抜いたことはそれだけ何度も新年を迎えたことを感じさせます。作中の人物は既に老いているのでしょう。とすると永遠を与える小松引きと老いさらばえていく現実との齟齬が毎年大きくなっていくはずです。
この歌はそんな願いと現実の乖離を悲しく歌ったものであったのかもしれません。
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