【玉葉集】12 子の日の小松③
子日する野辺に小松を引き連れて
帰る山路に鶯ぞ鳴く
(玉葉集・春歌12・大中臣能宣)
玉葉集では子の日の小松引きの歌が4首続く。多い方だと思う。
詞書に「朱雀院の御屏風に、子日に松引く所に鶯の鳴くをよみ侍りける」とある。屏風歌というやつだ。
子の日の小松引きはおめでたいイベントだからそもそもネガティブには詠まない。屏風歌ならなおさらだ。この能宣歌は小松引きから帰る山路で鶯の声と出逢った喜びを言葉にしていると見よう。
以上を踏まえて歌に句読点を振ってみる。
子日する野辺に、小松を引き連れて、帰る山路に、鶯ぞ鳴く。
いやこれではおかしい。
「小松を引き連れて」では小松が擬人化されているようだ。しかも「野辺に」だから小松をどこからか野辺へと連れて行く歌になる。誰なんだ小松。
そうではなくて野辺で小松を引いてから家路につく歌でなければならない。振り直し。
子の日する野辺に小松を引き、連れて帰る山路に鶯ぞ鳴く。
だいぶ良くなった。だけど「連れて帰る」の目的語がこれでは分からない。小松か?誰なんだ小松。
逐語訳を前提とした分析ではこのもやもやは解消されないということがそろそろ分かる。ここらで修辞技法を探しながら読んでいこう。
「子の日する」。子の日というイベントをつつがなく行っているということだ。異論は無い。
「野辺に小松を」。野辺において小松を。小松をどうするのか?もちろん引くのだ。それしかあり得ない。
「引き連れて」。
やはりここだ。「引き連れて」は「小松」と結びつけるなら「引き」だけを取り出さねばならない。だけど「帰る」と結びつけるなら「連れて」単独では違和感がある。
掛詞だ。「小松を引き」と「引き連れて帰る」とが「引き」で重ねられているのだ。
大分整理ができた。それでは改めてこの歌の聞き方を一句ずつ考えてみる。
「子の日する」。屏風の絵通りの初句だ。
「野辺に小松を」。これも順当。聞き手は安心して次の句を待つだろう。
「引き連れて」。ん?となる。直前に「小松を」とあるから引いているのは小松のはずだ。しかし「連れて」とはこれいかに。
「帰る山路に」。ああ「引き連れて帰る」なのだ。野辺にともにやってきた友らを引き連れて和気藹々と家路についているのだ。そこに「小松を引き」のイメージを響かせながら。これで場と人々の雰囲気を作者と共有できた。
「鶯ぞ鳴く」。おっとひと味加えてきた。子の日に引いた松。意気揚々と帰る山路。賑やかな友ら。そこに鶯が声を添える。世界に愛されたかのような予定調和の世界。いかにも屏風歌にふさわしい。
今回は詞書の情報を踏まえつつ和歌に句読点をふって読解につなげてみた。自分の読みを他者と共有する方法として幅広く使えそうな気がする。少しこのスタイルで読んでみようと思う。
(訳)
子の日の遊びをする
野辺にきて小さな松を
引きぬいた そして友らを引き連れて
僕らは帰る 楽しい一日が終わりに近づく帰りの山道 その時にふと
鶯が鳴いた
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