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【新古今集】ススキが濡れる

花すすきまた露深しほに出でて
ながめじと思ふ秋のさかりを
  (秋歌上・349・式子内親王)

 すすきがしとどに濡れています。それでもすすきは茎が強いから、倒れ伏すこと無くゆらり、ゆらり。秋の盛りを迎えた野原にはそんなすすきがたくさん。

 式子はすすきを見つめたくなかったんです。いえ、見つめることを否定しているんじゃないですね。「ほに出でて」見つめることをするまいよ、と思っていたのです。

 「ほに出でて」の「ほ」は穂。すすきの穂。その穂はつぼみ状態(下写真)から

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 ぶわっと開きます(下写真)。

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 この開いた状態を「花すすき」と呼びます。他に「尾花」と呼ぶことも。  

 つぼみから花すすきへ。それはまるで、秘めて封じて抑えた思いが一気にほとばしるようでした。だからこの「ほに出でて」は「表にあらわれる、あらわになる」ということの比喩として使われました。

 一面の花すすき。それなりに見応えのある景色のはずですが、どうして「ほに出でてながめじ」、つまり気持ちを前面に出しては見つめない、なんて言うのでしょうか。

 すすきは万葉集の時代から歌に詠まれているんですが、実は「愛でるべき秋の景物そのものとして詠まれたものは見あたらず、旅先での望郷の思いや不安を触発する景物としてのものが二例」あると言います(『万葉集ことば事典』大和書房 2001)。すすきはそもそもは賞美の対象ではなかったのですね。

 そういう伝統の中で、古今集に

今よりは植ゑてだに見じ花すすき
ほにいづる秋はわびしかりけり
       (秋歌上/平貞文)
今からは
庭先に植えてなんぞ見ることはすまいよ。
花すすきを
その穂がすっかり出て悲しい気配が感じられる秋は
わびしいものなのだ

と詠まれました。こうして秋の花すすきは悲しみを誘発するものとしての位置を確固たるものにしていきます。

 式子内親王はその悲しい花すすきを受け継いでいます。悲しみを誘発する花すすき。故にそれを見つめまいと、自分は決めていたのです。



 しかし式子はその花すすきが涙に濡れたかのような姿を目にすると、じっと見つめないわけにはいきません。
 その姿のあまりに叙情的な様子から。
 侘しい涙を流すようなそのたたずまいから。
 そして同時に自身も悲しみを誘発され、涙を流すことになったでしょう。

 気になるのが二句の「また」です。どうやら露が置くのは二度目らしい。では一度目は?

 その一度目の露は、すすきに置く露ではなく自身の涙のことではないでしょうか。というのも恋を詠う次の歌があるからです。

しのぶれば苦しかりけり篠薄
秋の盛りになりやしなまし
   (恋二・770・勝観法師)
 
恋の思いを秘めてしまえば
心の中は苦しいばかり
篠薄よ、私の心よ
秋の盛りの到来に
花を咲かせてしまおうか、言葉に出してしまおうか

 篠薄、つまりつぼみ状態のすすきの時も苦しかったのです。思いに耐えていたのです。恋を忍んで涙も流れていることでしょう。一度目はこの涙だったと考えます。式子内親王は勝観法師の歌を受け、その苦しい忍ぶ恋の叙情に共感しつつ、自身はその思いをさらけ出すまいと決めていたのです。

 それなのに、式子はすすきを見つめてしまった。慕情を態度に示すかのように、すすきにじっと見入ってしまった。そうしてやはりその姿に悲しみを誘発され、二度目の涙を流したのです。


 式子内親王は二首の本歌により、自分の歌に薄の抱くわびしさと恋歌の慕情の深みを与えました。情報量の多さにクラクラしますが、こういう歌を読むと新古今時代の歌の世界に畏怖と敬意を呼び起こされます。


花すすきまた露深しほに出でて
ながめじと思ふ秋のさかりを

花すすきは
しとどに濡れて、私はまた涙に暮れている
露わな態度で
見つめて悲しみを誘われまいと思う
秋の盛りなのに。

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