【新古今集・冬歌8】寂しい山里
おのづから音するものは庭の面に
木の葉吹きまく谷の夕風
(新古今集・冬歌・558・藤原清輔)
この歌は「山家落葉」という題があって詠まれたものだ。歌の舞台は山里。冬に山なんか行けばそりゃ寒い。誰もいなくて当たり前だ。なんでそんな所を舞台に和歌を詠んだのか。
由来は海を渡るようだ。『歌枕歌ことば辞典 増補版』は
『万葉集』にはまったくよまれていなかった「山里」が、『古今集』以後、このようによまれるようになったのは、中国六朝の隠遁思想、山居思想の影響とみるべきもののようである。
と説明する。
中国の隠遁は時の政治への全身全霊の批判だ。伯夷・叔斉あたりが源流だろう。
和歌で政治批判はあまり行われない。孤独や哀切を歌う。なぜ隠遁するのかよりも隠遁とはどんなものかということに興味があったようだ。古今集の
山里は冬ぞさびしさまさりける
人目の草もかれぬと思へば
(古今集・冬歌・源宗于)
は古い例。
さて清輔だ。寂しい山里に訪れる風を歌っている。
歌材は常套的だが初句の「おのづから」が上手い。ここでの「おのづから」は「ひとりでに」の意味から派生した「たまに」の意だ。この語で想起させるのは風が音を立てる瞬間以外の時間だ。ずっと続く閑寂。
僕らはあまりそんな所に住むことに憧れない。平安貴族だってそうだろう。風邪でも引けば死活問題だ。命がけの冒険の成果が閑寂では見合わなすぎる。
それでも彼らは閑寂を歌った。執拗と言って良いほどに徹底的に山里住まいを追求した。実利が無いまま閑寂を味わい尽くす。
寂しいということに美を見出す姿勢がそこにある。
(訳)
たまに
音を立てるのは
庭の上で
木の葉を激しく巻き上げる
谷から吹いてくる夕方の風
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