【玉葉和歌集】17 狙う実氏
宝治二年後嵯峨院に百首歌奉りける時、同じ心を
春日野にまだうら若きさいたづま
つまこもるとも言ふ人やなき
(玉葉集・春歌上・17・西園寺実氏)
春日野に生える
まだ若々しい
さいたづまよ。
ここに夫が隠れています、とか
言う人はいないのかい。
どんな顔をして歌っただろう。
詠者は西園寺実氏。太政大臣となり中宮の父となり、栄達を極めた大政治家だ。おまけに幕府に指名され関東申次となった。関東と京都を繋ぐ要職だ。生涯その任を降りなかった。
歌を詠んだ宝治二年の実氏は50代。太政大臣と関東申次に任じられてから二年後だ。多忙を極めつつも充実を感じていたことだろう。
その実氏が詠んだ若草の歌。僕にはその毒も薬も飲み干してきた海千山千の大政治家が、にやりと笑いながら歌を披講した様子が目に浮かぶ。
歌題は「若草」だ。
実氏は「春日野に」と歌い出す。春日の里には若草山がある。「若草→春日野」の発想はごく自然だ。
「まだうら若き」。
「若草」題で「うら若き」。聞き手の中には次の歌を思い浮かべた者もいたかも知れない。
うら若みねよげに見ゆる若草を
人の結ばむことをしぞ思ふ
(伊勢物語・四十九段)
若々しくてたまらず添い寝したくなってしまう若草のような君を
誰か他の男が手に入れて契りを結ぶんだなあ、なんて思ってしまう
数ある『伊勢物語』の恋愛の中でも一際異彩を放つ話が四十九段だ。何しろ上の歌を贈った相手は実の妹である。自分の妹が美しく成長したのを見て、自分以外の誰かとの共寝を想像しているのだ。ちょっと変態性が高い。
実氏がこの話を念頭に置いたかどうかは分からない。念頭にあったのならそのにやにやはより深かっただろう。ともあれ「若草」「春日野」「うら若き」で女性を形容する文脈がうっすら見えてくる。
そこから「さいたづま」。
聞き手はいよいよ乗ってきただろう。こちらは珍しい言葉だ。先行歌にこの言葉と「まだうら若き」を用いた藤原義孝の歌がある。
野辺見れば弥生の月のはつかまで
まだうら若きさいたづまかな
(後拾遺集・春下・149)
野の方を見ると、弥生三月の二十日まで
まだ若々しいさいたづまだよ
義孝の「さいたづま」は草の名だが「妻」も掛けている。春が終わりそうになった「妻」でも「まだうら若」いという。ずいぶん色っぽい歌だ。若くして亡くなった義孝の想像する若々しい人妻とはどのような人だったのだろう。
実氏の「さいたづま」にも「妻」はかかっているのだろう。するとやはり実氏は「若草」題で女性を歌おうとしていると聞き手は確信するはずだ。
しかし四句で飛び出すのが「つまこもるとも」。
「ええっ!?」だ。だって「春日野」で「つまこもる」ときたらもうあの歌しかない。さっきの四十九段どころではない、揺るぎようのない本歌が見える。
春日野は今日はな焼きそ若草の
つまもこもれり我もこもれり
(古今和歌集・春上・読人不知)
春日野を今日は焼かないでください。愛しい愛しい
あの人も隠れているのです。私も隠れているのです。
古今集歌では「つま」と「我」の性別は分からない。「つま」は妻でもあり夫でもありうるからだ。だが『伊勢物語』でこの歌は初句を「武蔵野は」に変えられた上で使われた。詠んだのは女だ。そこでの「つま」は夫だ。
にわかに実氏歌の「つま」が男性である可能性が出てきた。その場合実氏が女性の立場で詠んでいることになる。「まだうら若きさいたづま」が「うら若き夫」の意味になるのにはかなりの違和感を残しつつ。
だが。
「言ふ人やなき」。
そんな風に言う人はいないのかい、と呼びかける。自分の夫です、と言う人はいないのかと。つまり、作中主体が呼びかけている対象は女性だとここで確定する。そして作中主体も無事男性性を確保した。聞く人もほっとしただろう。いかに公家とはいえ50代のおっさん、いや爺様が女性を演じる姿はきついものがあったのではないか。
さて以上を整理しよう。
「さいたづま」に響かせた「つま」は義孝と同じ「妻」である。女性である。だから「春日野のまだうら若きさいたづま」は若さを残す人妻に呼びかけている。
しかし「つまこもれり」はその「妻」の台詞になる。だから「つまこもれりと言ふ人やなき」は「夫が隠れていますと宣言する人はいないのかい」という意味になる。まるで人妻を呼んで浮気を迫る間男みたいだ。「『夫がいますから』とか言わないのかい」と。
大政治家・西園寺実氏。
聞き手を揺さぶりながら色気たっぷりの歌を詠んでみせた。嫌いにはなれない歌い手である。
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