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大伴のおうち2️⃣ 大伴旅人

大伴御行亡き後、大伴氏のリーダーになったのは、弟の安麻呂です。

当時のトップベスト3は、皇族の穂積親王(天武天皇の皇子!)石川麻呂(左大臣)藤原不比等(右大臣) 安麻呂は、彼らに次ぐ地位にありました。

まさに堂々たる大貴族です!!

和銅3年の元旦朝賀では、大伴氏と佐伯氏が、騎兵として朱雀大路を進んだといい、まさに宮廷を守る顔として大伴氏は存在したのです。

安麻呂の子供が旅人です。 大伴旅人も官僚として、歌人として名を馳せた人です。 彼こそが今回の主役、大伴家持の父であり、1000年後の元号を作るきっかけとなった人です。

そう、令和は彼の詠んだ歌から採用されました。 旅人の正妻は大伴郎女と呼ばれていますが、彼女は家持の実母ではありません。

家持を産んだママは誰なのかよくわからず。 家持が何年生まれかもよくわかりません。

ただ、色々推定すると、養老2年頃と言われています。

養老とは、女帝元正天皇在位中の元号。

女帝が現在の岐阜県に行幸された際、養老の滝という霊泉に赴かれたといいます。

その水は「若返り、肌がキレイになり、白髪は黒くなり、ハゲは治る!」という効力があり、感動した女帝は改元したといいます。

それが「養老」なのです。

720年、大伴旅人は九州へ赴任します。

隼人の反乱があったようで、その鎮圧の将軍としての赴任でした。

その後都に戻りますが、また九州へ赴きます。

そして、九州にてのちに筑紫歌壇と呼ばれる歌のサロンを形成します。

メンバーには山上憶良や、小野老といった人々がいました。

旅人は九州へ赴任する時奥さんを連れて行ったのですが、亡くなってしまい、その悲しみを歌う歌などもあります。

この筑紫歌壇で作られた歌で、私たちになじみ深いものひとつが

あおによし 奈良のみやこら咲く花の 薫ふがごとく今さかりなり

ではないでしょうか? 奈良を歌ったものとして、とても有名な歌ですが、小野老によるものです。
奈良の都にて歌ったものではなく、奈良から遠く離れた地で詠まれた歌だったのですね!

また元号「令和」の元となった
「初春の令月にして、気淑く風和ぐ」が冒頭にある序文が、万葉集に記されています。

この九州の赴任に家持も同行していたようで、多感な青年家持は父とその仲間たちがひろげる華やかな空気を吸って育ったことでしょう。

当時の筑紫赴任は、決して左遷ということではなく、むしろ西の要として日本を守る重要な任務だったと考えられます。

また、九州は日本の玄関口として、当時最先端のものが入ってきていました。

令和の元になった宴は「梅花の宴」と呼ばれ、梅の花がテーマになっています。

梅という花も、この頃日本にやってきたものだったようです。

まだ日本人がよく知らないけれど、これから流行るに違いない?梅の木。 いち早く題材として取り入れることで、より大陸に近いことを意識した、優越感や自負もあったことでしょう。

ちなみにこの宴で旅人が詠んだ歌がこちら。 我が園に 梅の花散る ひさかたの 天(あめ)より雪の 流れ来るかも 梅の花が散っている。

天から雪が流れてきたのだろうか。ことを意識した、優越感や自負もあったことでしょう。

ちなみにこの宴で旅人が詠んだ歌がこちら。

我が園に 梅の花散る ひさかたの 天(あめ)より雪の 流れ来るかも

梅の花が散っている。 天から雪が流れてきたのだろうか。


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