ドレッシングと河のVaranasi

どこかへ行きたい。
旅に出たい。
そしてそのまま帰ってきたくない。
いや、帰るところがないと寂しい。
やっぱりいつかは帰りたい。


旅は帰ってくるから旅なのである。
帰路がないものはただの放浪だ。
私は放浪ではなく、旅に出たい。


旅とは変身することなのだと思う。
自分を縛り付けてきた土地から飛び出して、新しい自分へと変身する。
風土が人間を作るという和辻の説が本当ならば、私はそこで何者にでもなれる。


私は、インドのバラナシに行きたい。
ガンジス河の畔の小さな町。
ヒンドゥーと仏教の聖地。
三島由紀夫は、バラナシは一枚の騒がしい絨毯だと書いていた。
私はそんな絨毯の上を転がりたい。
絨毯にくるまれて眠りたい。
そこでインド象の夢を見たい。


バラナシへはデリーから汽車に乗って、ゆっくりと目指していきたい。
時間はたっぷりある。
どこかでインドの叙事詩を買って読もう。
飽きたら窓から雲を見て、お菓子なんかをポリポリ食べて過ごしたい。
寝るのも良い。


もしかしたら、旅先で寝ることが最高の贅沢なのかもしれない。
旅では、常に何かしなければいけない気がしてしまう。
そんなことはない。
別に非日常を体験しようとしなくても良いのだ。
旅とはあくまで日常と地続きの行為なのだから。


やっとこさバラナシに着いたら、まずはリキシャに乗ると決めている。
優しいインド人が運転してくれるよう、自分のカタコト英語で交渉したい。
できれば陽気で黒い髭を生やしたインド人が選ばれてほしい。
そして頬に風を感じながら、彼と楽しく話すのだ。自己紹介もなく、長年の親友みたいな感覚。
そんな関係に憧れている。
軽やかな冗談が似合う彼には、町の案内をしてほしい。
チップをたんまり弾んで、つきっきりでガイドしてもらおう。


始めは繁華街に出たい。
響くクラクション。
陽に灼けた汗と土の若い匂い。
牛の集団。
早口で捲し立てる男性。
バイクの渋滞。
活気に溢れた、エネルギー満タンの町を感じたい。


そして私は、インドの色を目に焼き付けるのだ。
インドの色は美しい。
鮮やかなビビッドカラーが町に溢れている。
色の多様性は生命の熱気と比例している気がする。白と黒の単調な組み合わせは、生き物としてのダイナミックさを人間から奪っている。
インドの色は自由だ。
赤に橙、緑にピンク。
サリーに建物に看板まで。
全てが笑えるほどに無秩序だ。
目をつぶっても、その鮮やかな残像は瞼にこびりついて離れない。
そんな躍動する気持ち良さが、インドにはある。


私はインド料理屋が好きだ。
香料の匂いとインド音楽が流れている店内で、ハフハフのカレーとナンが味蕾を刺激する。
あの瞬間が大好きだ。
そこは体全体が楽しくなるワンダーランド。
インドというスパイスがわたしの五感をくすぐってくるのだ。


私は時々ふとカレー以外のことが考えられなくなる。
そしてそのままインド料理屋に吸い込まれる。
入ったら最後、満腹でないと出させてくれない。
インド料理は、私のAED。


それはサラダの存在が大きい。
初めてインド料理屋のサラダを口に入れたとき、突然脳内でシヴァ神が微笑んでインド人がナートゥを踊り始めた。
蓮の花が開く。
象が歓喜の声を上げる。
私は菩提樹の下にいて、気付けば悟りを開いていた。


それほどまでに、あのドレッシングは美味しい。
インド料理屋の謎ドレッシング。
一度スーパーで売っているのを見かけたが、絶対に買わないことにしている。
家に持ち帰ったならば、その神聖さが永遠に失われてしまうような気がしたのだ。
あのドレッシングは、実は大昔にインドの修行僧が悟りを開くために使った秘薬なのではないか?
少なくとも私はそう信じている。


だから、繁華街の渋滞を抜けたらどこかでご飯を食べたい。
バラナシで本場のバターチキンカレーを食べたい。私は辛いのが苦手だ。
時々ラッシーで舌を労わりながら、ずっとハフハフ食べ続けたい。
屋台で買い食いするのも良い。
地元のおすすめの味を感じたい。


本場のインド料理を食べたら、もしかしたら失神するかもしれない。
そのままぐるぐる回る輪廻から外れて、解脱してしまうのかもしれない。
現れる、苦しみと迷いのない世界。
しかしどんな宇宙の真理を知ったとしても、インド料理に勝るものは存在しないと思う。
だから多分私はまた欲で溢れた世俗に帰ってくるだろう。


さあ、煩悩と手を取り合って生きよう。
私は、食べるために生きるなと言ったソクラテスに真っ向から反対する。
人は脳に送られる些細な味覚の電気信号のために生きているのだ。


昼下がりにはバザールを彷徨いたい。
私は知らない市場を歩くことが夢だ。
ざるいっぱいの穀物。
吊り下げられた鶏。
ぐにゃぐにゃ曲がった文字。
野蛮さと美しさが同居した、カオスな空間。
何か目的があって寄るのではない。
たまたま目についた、見たこともないフルーツを買って味わいたい。
使い道がわからない雑貨を買って、誰かにお土産として渡したい。


あと、私はインドの鐘が欲しい。
インドの鐘は澄んでいる。
脳天から針を突き刺すような音が心地よい。
鐘の細やかなレリーフも良い。指でそっとなぞってみたい。
きっと冷たくてコロコロしているはずだ。
バザールでは、そんな小さな鐘を見つけたい。


夜になったら早めに眠ろう。
なかなか寝付けなかったら、ラジオを付けるのもありだ。
インドのラジオは面白い。
チューニングを合わせた瞬間に、空也上人のようにスピーカーからダンサーが踊りながら登場する。
インドの音楽とダンスを浴びると、体が脈打つのを感じる。


初めてそれを体感したのは、インド映画のRRRを観たときだ。
インドの男性はカッコいい。
黒い整った髭。
上げて固めた髪の毛。
筋肉質の肌。
そして披露されるキレキレのダンス。
見ていると血流がサラサラになりそうだ。


私はどうやら野生味溢れるものに惹かれるらしい。人間本来の姿こそが美しいと感じる美のルネサンス運動。
これがいつの間にか私の中で勃発していたようだ。


私はインド音楽を聴きながら、疲れ果てて眠りにつきたい。
サウナから出た後みたいに、気持ちよく眠れるはずだ。
きっとべらぼうな夢を見るだろう。
私は摩訶不思議な夢の三千世界へ出かけてみたい。現実と夢の境界線がグラデーションのように溶け合って、バラナシが私を包んでほしいなと思う。


次の日は、うんと朝早くに起きたい。
朝日が昇る前に準備をして、宿を出たい。
目指すはガンジス河。
母なる河。
女神の河。
そこで、昇る朝日を見たい。


ガートと呼ばれる沐浴場に向かう。
広い階段が河まで続いている。
周りでは、多くのヒンドゥー教徒が沐浴をしている。
私もここで沐浴をしたい。
ここは恵みの河。
人々の祈りに応えて、天界から落ちてきたそうだ。その水に、触れてみたい。


私がバラナシを知ったのは、遠藤周作の深い河で描かれていたからだ。
終盤のシーンで、登場人物が沐浴をする場面がある。
そこで彼女は、ガンジス河に「人間の深い河の悲しみ」を感じる。
神はいるのかわからない。
信じられるのは、人々が深い河で祈るその光景のみである。
その人々の中に、今は彼女もまじっている。
河はそれを包んでゆっくりと流れてゆく……。


私はプールの底での景色が忘れられない。
七月の光の底は一面がステンドグラスで、とても感動したのを覚えている。
それと同時に、このまま力を抜いて体中の空気だけを全部地上に返したいと感じていた。
水の中はひとりぼっち。
水は、少し怖い。


十の五十二乗を、恒河沙と言うらしい。
意味は、ガンジス河の砂。
なぜかその言葉を思い出した。
私は沐浴で、自分の無力さを感じたい。
自分の悩みは小さいものだと、そう言い聞かせて信じ抜きたいのだ。


神なんていない。
だけど、私は何かを信じていたい。
人生に意味なんてない。
だけど、私は何かに頼っていたい。
明日なんか来ないでほしい。
だけど、私は何かが変わるのを待っていたい。


朝日が雲を照らすのを見ながら、般若心経を唱えたい。
色は空であり、空は色である。
私は、哲学や宗教というものを信じてはいない。
人間の言語は抽象的なものを表現するだけの能力はないからだ。


ただ、この色即是空と空即是色という言葉は、河の流れに似ているなと思う。
目の前にある河は、氷河から落ちてくる水滴が集まってできている。
そうしてヒマラヤ山脈で長い間眠っていた水は、ゆっくりとベンガル湾まで流れてゆく。
河から放たれた水は、インド洋を漂った後、蒸発して再びヒマラヤ山脈へと降り注ぐ。
どの瞬間を切り取っても、それは河であって河ではない。


別に私は、それを人間に当てはめようとは思わない。
比喩は万能ではない。
限界もある。
ただ私は純粋に、そこで般若心経を唱えていたい。


日が昇ったら、ガートで宇多田ヒカルのDEEP RIVERを聴いていたい。
これは遠藤周作の作品をモデルに作った歌だそうだ。
歌詞には「やがてみんな海に辿り着き/ひとつになるから怖くないけれど」とある。
ガートの横では多くの遺体を燃やしている。
その灰は、ガンジス河へと流される。
そして海へと帰ってゆく。


memento moriという言葉があるが、長い間私はなかなか実感できていなかった。
それが変わったのは、去年の祖母の死からである。生きている体と死体は全く違う。
寝ている人を前にしても、それは生きているとすぐに分かる。
しかし、後者は物体にしか見えない。
本当に、ただの物体にしか見えない。
魂という概念が生まれるのも納得した。


そう、所詮私も物体なのだ。
この私とガートで焼かれる遺体の間に違いなんかない。
この体は物体にすぎない。
私はいつでもあちら側になる。
生と死の境界は、非常に脆くて不安定だ。


私はここで感じたものを、ニヒリズムという言葉だけで片付けたくはない。
私はもうちょっと複雑で、矛盾屋で、少し繊細だ。私は楽しく生きたいし、過去を引きずりたいし、自分を愛してみたい。


この前祖母の夢を見た。
普段の生活の一部として、祖母は何気なくそこにいた。
目が覚めた後しばらくして、現実に思考が追いついてくる。
私はその瞬間が嫌いだ。


初盆で、親戚の赤ちゃんに会った。
ぷっくらした顔は生きる喜びに満ち溢れていた。
泣き声でさえも力強い。
赤ちゃんは、懸命に生を握りしめていた。


生と死は矛盾する事柄なのだろうか。
生と死は連続的な事象である。
だからといって、それらは全部繋がっていると断言して良いのだろうか。
そんなことを考えても無駄だ。
意味なんてない。


ただ私が言えることは、そんな生と死の終着点の一つがバラナシであるということだけだ。
バラナシは、人を惹きつける。
それは生と死の両面を併せ持つからだ。
私はバラナシでガンジス河を見たい。


それと同時に、人間の河を感じたい。
そこにはきっと一人一人違う河が流れている。
濁流でもなく清流でもなく、ただただ広い河がゆっくりと流れているはずだ。
私はそれを受け入れたい。
だから、どうか私の河も受け入れてほしい。


私はガンジス河の流れを一日中眺めていたい。
何日か眺めて、しばらくして帰りたい。
私は旅人だ。
帰るべき家がある。


帰る前に、私は花売りから花を買いたい。
それを静かにガンジス河に流すのだ。
そして河の流れをもう一度見たい。
視界から花が消えるまで、じっと見守っていたい。


私は何に変われるのか。
私は何に変わったのか。
いつかバラナシに行って、一人で問いかけてみたい。

その時、答えは返ってくるのだろうか。

その時、答えはそこにあるのだろうか。

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