伴わない思考と構想のメモ

最近起きている異変は自分の頭の中で聞こえる声である。
基本的には自分の声で、独り言のように永遠にしゃべることが多い。
それはいつ何時でも止まることはなく、
自分の頭の中の声は歌う・考え事を永遠に独り言・言いたいことを1度頭の中でゆって判断する(主に誰かと会話中、出来ずに声に出たり行動に起こすこともよくある)の3つである。
最近の異変というのは、その言葉がない時間が増えていることだ。
「あああーーーーーーーーーー」
一見ふざけたような言葉だが、この言葉が頭の中で反芻をする。
普段は続く思考も止まってしまう。
意識していなかっただろうが、夢を見るように思考を巡らせた幼少期。
なんかずーっとしゃべってるなと感づいた小中学生時代。
自分の障害と向き合いながら理解をし、失望し、生きたくないと嘆いた高校生時代。
あれが出来るこれが出来るこれは出来ないと忙しく考えた今の大学生生活。
どんな案を出す時も、自分の勘と頭の中の声を確実に言葉やニュアンスに変えてきて、この20年を生きてきたのだろう。
それが一変、思考が止まる時間が増えてきた。
わずかに聞こえる電気や空気のノイズ、声にならない母音。
意味がない言葉に嫌だと思ったことはない。
しかし、それがないとなると訳が違う。
自分の生命線ともなる心の声がなのであれば、それは考えることをやめたと言っても仕方ないだろう。
無意識の自我の言葉や相手の言葉が反響することで会話をした。
ふと出てくる頭の会話を出力変換してアウトプットすることで案を出し、意見を出し、そこで腑に落ちないことは質問をした。
それは時に味方をし、時には敵となった。
敵となることも悪いとは思わない。
むしろ好敵手となり、自分に負荷を掛ける良き相手出会ったのではないかと思う。
もちろんそれによって犯したミスや損害も大きかったが。。。
だが、相手がいないのは、それはまた訳が違うことになる。
自分の壁打ちの相手どころか、発言する相手がいないのと変わらない。

何も動けず、その気も起きず、ただただ黙々とテンプレのように行動することが増えたように見える。
それは自分だけが迷惑が掛かるものではない。
人を相手にし、こどもたちと楽しさを育みたい人間としては致命的なのではと感じる。

かき氷機はないけどかき氷が食べたい!!
という子がいた。
氷はあるよ~。と返事をして、かき氷を作るチャレンジが始まった。
切る?砕く?削る?いろいろな可能性がある。
よくあるふわふわなかき氷だけしか頭になかった私はその時頭に何も走らず、
砕いたらかき氷じゃなくてただの氷じゃん
ゆった記憶もないが、かすかにそんな覚えがあった。
その子はその時
確かに!
と考えもせず違う方法にシフトしてしまった。
結果はというと、他のスタッフの
砕いたみた?
の言葉で砕いてみることになり、細かくなったかき氷を美味しそうに食べていた。
だってこてつさっきゆってたじゃん
と言われてはっとした。
子どもにやってみるの場を提供するためにいたはずなのに、それを崩してしまったんだなあと後悔している。
これを書いた2週間前頃だったはずだが、しばらくは消えない穴のような後悔だろう。

あれ、こんなところでなにしてんだろう?
あれ、なんのためにやるの?
今自分がやりたいことってなに?
今自分が出来ることはなに?
自分を傷つけるような質問はいくらでも浮かぶ。
しかし、肝心の返答がない。
返答してくれなければ会話にならないじゃないか。
私は頭の中の会話こそが生きるために必要な材料で、
楽しむ、苦しむ、
すべての感情をコントロールし、
体を操作し、
時には勘を、
時には努力で具現化、
そうやって自分は生きてきたはずだった。
それがない今の自分はAIと区別することとも難しく、、
と思ってしまうほど今の自分には自我がない。

6月末には主催でイベントをやろうかという構想がある。
いや、やろうと思っている。
やりたくないなんて思ってないし、むしろかろうじてやる気だけが残っている。
しかし、じゃあなにをやろう、どんなことがやりたくて、どんなことで自分のみたい顔が見られるのだろう。
と思うとそれは全く出てこない。
漠然とした、
やらなくてはいけない、成功させなければならない。
という事実と感覚だけが支配し、自分を動かしている。
不思議と楽しくないことはない。
しかし、楽しいのに刺激にはならないという、
それはそれで不思議な傾向であった。

じゃあ、これをかいたからなにがしたいか思いつくわけではない。
何も起きないこの異変に、自分の体が対応することを願うしかないのであろう。


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