osmosis(浸透)

 気付いたら、小雨が降り出していた。展示室に集められた私たちは、森山未來に導かれて21世紀美術館内を回遊していた。閉館後の美術館は全くの静寂で、ともに歩いている他の参加者の足音がいやにうるさく響く。先へ進んだと思ったら消え、モニターを通じて話し出したと思ったら予想だにしない方向から現れる。私たちは自在に館内を行き来する森山未來に翻弄されるまま、奇妙な堂々巡りを続けていた。



 現在21世紀美術館で開催中の「時を超えるイヴ・クラインの想像力」展をふまえて行われた、森山未來による「osmosis(浸透)」というパフォーマンスイベントである。
 高校時代の友人と連れ立って、イヴ・クライン展を鑑賞した後、私たちは集合場所であるレクチャーホールへ向かった。イヴ・クライン展がもう終了した時間である。そこには既にほとんどの参加者が集まって、皆一様に一席ずつ間隔を空けて座っていた。どこで売っているのか全く想像のつかない洒落た服を着たマダムや、仕事をしに来ましたと言わんばかりにかっちりとスーツで固めた紳士ばかりだ。どうやら20代前半の参加者はほぼ私たちだけのようだった。皆がなにがしかの重鎮のように見えてくるなか、私たちもおずおずと椅子にかけて、開演を待った。

 しばらくして、私たちはレクチャーホールから外へ連れ出された。案内されたのは、イヴ・クライン展の作品が展示されている展示14だった。美術館のほぼ中心に位置する、円形の部屋である。部屋に入ってすぐ、妙に存在感を放つ人物がいることに気付いた。なんのことはない、マスクをしていなかったからそう思っただけだった。おそらく彼が今回の主宰である森山未來なのだろう、と思った。私は森山未來の顔を知らなかったのだ。参加者のざわめきが静まると、彼が話し出した。正しくその人だった。彼は参加者全員にマスクを外すように言い、また会話を禁じた。これから彼と私たちは、空間のなかで一体化するのだ、ということだった。

 照明の落とされた円形の部屋の中を、森山未來が独特の緩急のついた動きで真っ直ぐに進んでいく。踊っているというよりは、何かをかき分けて進んでいくような。コンテンポラリーダンスというものを、生で目にしたのは初めてだった。人々は無言で彼の通り道をあける。その動きが、かえって肉体の存在を強調させるようだった。
 イヴ・クラインは、精神として金を、空間として青を、生命として薔薇色を、三原色として捉えていたという。真青の作り出す虚無。青く染まった全ての物体は無として交じり合う。今回のパフォーマンスのコンセプトは、私が捉えたところによると「皆で青く染まること」らしかった。
 ぶつからないように、しかし森山未來のパフォーマンスを最大限目に焼き付けるために、観客たちはつかず離れずの適切な距離を保って彼を見ていた。やがて私たちは、展示室から連れ出され、閉館後の青く染められた廊下を、列を成して歩いて行った。

 程なくして、参加者たちに「口噛み酒」が振る舞われた。私は見るのも初めてだった。無論、森山未來の口噛み酒である。ガラス製の美しいお猪口をたっぷりと満たしている、噛み砕かれたおかゆのような液体。日本酒の一種だと思っていたが、匂いはヨーグルトに近かった。森山未來が、各々の口噛み酒に手ずから金粉を振りかけていくという。私たちはひとりずつ、お行儀よく彼の前に並んだ。

「(イヴ・クラインの言うところの)精神の象徴である金粉を媒介として、私たちはこれから一体となります」

彼はそのようなことを言っていた。はらはらと舞う金粉。彼は金をはじめとする伝統工芸で名高い金沢でレジデンス・プログラムを経験したということだから、彼の金に対する造詣は尚深まっていることだろう。
 私の地元は富山県高岡市である。富山県内では金沢に近いほうで、幼いころからよく遊びに来ていた。金箔貼りの体験をしたことも、金粉のまぶされた甘味を食べたことも、金箔の混じった美容液を恐る恐る塗ったこともある。だからささやかにかけられた金粉は、イベントの新鮮さにも関わらず久しぶり、というような気さくさだった。にもかかわらず、森山未來の奇妙な存在感は私を不安にさせた。カルト教団に間違って入信してしまったような気分だった。彼の顔を予め何らかのメディアで認知していれば、こうは思わなかったかもしれなかった。

 胎道のように狭いガラス張りの通路で、私たちはお猪口を掲げた。水滴に濡れたガラスでぼやけた森山未來を眺めながら、合図とともに口噛み酒を飲み干した。否、飲み干そうとした。

 予想だにしない味が、口内を支配した。甘い日本酒のようかと期待した液体(半固体)は、甘いのだが奇妙にしょっぱくて、どうも体液を思わせる。しかもなんだかしゅわしゅわと音を立てている。あまりにも未知すぎる感覚と、「口噛み酒」というネーミングのインパクト。食道がきゅっと狭くなり、胃がひくひくと痙攣する感覚は学校給食以来だった。小さな一口をやっとのことで飲み込む。かみ砕かれ切っていない米粒が喉を進んでいく感触。周囲では徐々に杯が空いていく気配がする。私はえずくのを抑えながら、6口くらいかけてやっとお猪口を空にした。

 空腹だった胃の中に、確かな存在感でもってそれは鎮座していた。他人の唾液、もしくは精液を飲んでしまったような。汗は塩辛く、唾液は甘い。他者に食道をこじ開けられたような感覚がしばらく残った。歩き続けた足もそろそろ痛かった。ぜんぜん、解放されないじゃないか。と、私は思っていた。


 参加者たちは美術館の職員にも案内されながら、回廊のような21世紀美術館を歩き続けた。
 今回の展示には、キム・スージャの「息づかい」という、回折格子フィルムを四方のガラス壁に貼り付けた作品がある。スポットライトに照らされたフィルムは像を分散させ、回転・反復してこの世のものでないような視覚体験を私たちに与える。ガラス壁は光庭と館内を隔てているものである。
 森山未來は「ガチャン」と大きな音を立て、光庭の中へ滑り出していった。

 森山未來が踊る。虚像が踊る。森山未來の音声が、館内のスピーカーを通して流れ出る。
 私たちはほとんど、幻を見ていた。
 フィルムで分散して増殖した彼の像のどれかは、本当の位置を映し出していただろう。だが、そんなことはどうでもよいことだった。
 虚像の華麗な動きを、私たちはぼんやりと見つめていた。

 「ガチャン」と音がして、森山未來は向こう側の扉から出ていった。
 夢から覚めたようだった。


 私は光の浅瀬を歩いていた。
 胎動のような一本道は、たっぷりとライトで満たされていた。歩き続けるうち、いつの間にか先頭を歩いていた。
 覚束ない足取りで案内人の後を追う。森山未來はいつの間にか消えていた。


 また青く照らされた回廊を歩く。回り続けて、私たちは別の光庭の前で止まった。イヴ・クラインの「青い雨」と「ピュア・ブルー・ピグメント」が、そこには展示されていた。
 イヴ・クラインは、分かりやすくタブロー(絵画)に表現した作品こそ多かれど、青い顔料そのものを床に置いてしまうことこそ最も相応しい「無」の表現だと考えていたらしい。ガラスに弾かれた雨粒が、作品と呼応しているようだった。暗闇にぼんやりと、しかし鮮やかに浮かび上がる青色は、夢のように美しかった。
 

 作品の奥に、ビニールバッグに包まれた肉体があった。肉体とするにも、曖昧かもしれない。
 見ているうち、肉塊はもがき出した。腕なのか足なのか、棒のような一本を高く持ち上げて、持ち上げようとして、ビニールに阻まれていた。
 また、頭のような部分が空を仰ぐ。黒とピンク色をしていたので、おそらくそうだろう。
 何らかの音楽が流れていた気がする。今度は両足(もしくは両腕)が天を指す。しかしまたビニールに抑えつけられて、地面に戻る。
 気付けば雨は本降りになっていた。作品を照らす照明が、肉塊を照らすスポットライトが、濡れた地面もてらてらと輝かす。肉塊はビニールのなかでもがき続けている。
 もどかしかった。この場にいる全員が、固唾を吞んで見ていた。早くそのビニールを突き破ってくれ。息苦しいから。地面は濡れていて冷たい。雨粒はどんどん大きくなって、肉を打つようだった。
 そのうち、あれが森山未來なのか、私なのか、それとも他の何かなのか、分からなくなった。



スポットライトが消えた。肉塊はもう動かなかった。青色だけが空間を満たしていた。
 私たちはひとかたまりの空気のように、はじめの展示室へと戻っていった。

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