連載小説 「死神捕物帖」(2)
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トーヨー電基での仕事は至ってシンプルだ。受注したものを納品し、金を得る。ただそれだけを粛々とこなせば終わる。それぞれの受注を相応の期間のうちにケリをつけていけば、我々は自分の栄養分を摂取したり、退屈な毎日にアクセントをつけたりするための給料をもらえる。しっかり教え込めば、中学生でもできるような仕事だ。
しかしトーヨー電基はいつも何かにてこずっている。常に不協和音を鳴らしながら会社を動かしている。原因は宮本のような愚か者たちのせいだ。
工員の田辺、岸本、井伏。
総務部の小島、藤本。
開発部の工藤。
ぼくが知っているだけでも、死に値する愚か者はこれだけいる。もしぼくがもっと活発に部署をまたいだ仕事をしだしたら、さらにその名は増えるだろう。
彼らは誰かと共同作業をするには、脳の機能があまりにも弱いのだ。
彼らのせいで本来やるべき業務のほかに、愚者が漏らしつづける大量の糞を誰かが始末するという不本意なタスクが生じる。もちろん、ぼくも過去に糞を漏らしたことはあるし、少しばかりその量が多かったこともある。ぼくは人間のちょっとした誤作動に関しては寛容な姿勢だ。己の誤作動を認め修正プログラムを走らせることができるのは、進化過程の中である程度の知的レベルに達した動物の褒めるべき点だ。そういった過程と見なすことができる「お漏らし」に声を荒らげる必要はない。
だが宮本をはじめとする低脳はこのケースに当てはまらない。起床後すぐに糞を漏らし、それに気づかぬままそこかしこでまだ漏らし続ける。誰かに異臭を指摘されても反論するか納得したふりをするに終始し、結局は翌朝からどばどばと糞を漏らす。修正プログラムは死ぬまで起動されない。
ぼくが所属する製造部は、列をなしてモデムの検査をする工員たちがいるフロアの端にある。三つのデスクが並んでいるが、実務をこなしているのはぼくと川端明夫の二人だけだ。空いている席は開発部と製造部の部長を兼任する兵藤義昭のものだったが、ぼくと川端でほとんどの仕事が済んでしまうことを知ってからは、彼の身は開発部にばかりあった。
川端は寡黙で、ミスのない仕事をする。彼はときどきぼくの娘の成長加減を問うてみたり、連休後には四国へ旅行をしたがあいにくの雨続きだったなどと報告するような愛嬌を持ち合わせていて、ほどよい好感をぼくに与えてくれていた。
今日明日はいくつのモデムを製造する。そのためには何人の工員がいる。必要な部品の入荷はいつになる。そういったことを確認し、工員に指示を出して進める。もしこのフロアにいる人間が全て川端のような真人間だったら、この全てが円滑に動いていくだろう。大勢の川端で構成された企業には何ひとつ問題はない。結局のところ、川端ほどの動きをとれる人間がこの世に少なすぎるせいで問題は生じてしまうのだ。
ぼくはコーヒーカップを口元に近づけながら検査ラインの様子をうかがった。
モデムの検査は装置に機器を差し込んだあと先端に丸いゴムがついた棒で二、三度機器を叩いて五分待てば終わるという、ごくごく簡単なものだ。正常なものは出荷用のコンテナへ。異常があれば、高度検査に回される。田辺と井伏は非番で、岸本は出口近くのブースを陣取っていた。彼の金色に染めたけばだった長髪は、愚かさを際立たせる。ゆらゆらと体を揺らし、少し手が空くたびにスマートフォンに何かを打ち込むその姿を見ると、ぼくはため息が出る。
ぼくに怒りはない。
人生の中で怒りを感じたことはほとんどない。
ため息は怒りとは違った感情からやってくる。岸本のような愚者を目にすると、乱雑な世界を片付ける面倒くささがずしりと肩にのしかかってくるのだ。ぼくはストレスを感じると同時にストレスを消すための行動をイメージする。馬鹿どもが勝手に死んでくれればこれほど楽なことはないのだが、そうはいかない。ぼく以外の誰かが彼らを殺す可能性もきわめて低い。
過去に岸本のような馬鹿工員を殺したことがある。
深夜、偶然にも雑居ビルの間で泥酔して横たわる馬鹿工員を見かけたぼくはたった五分で絞殺を済ませた。経験上、ひと気のない場所で音もなく迅速にことが終わらせ痕跡を残さずにその場から去れば、まず警察に捕まることはない。平沢市における深夜の静けさと街頭カメラの少なさは殺人者向きだ。馬鹿工員が殺されたニュースはそれなりに世間を賑わせたが、これっぽちもぼくに捜査の手が及ぶことはなかった。ぼくが逃げおおせるエンディングに向いたご都合主義のピカレスクロマンでも、もう少しぼくを疑うはずだ。しかし馬鹿工員の部屋に微量の大麻があったことから、シナリオはぼくと無関係になったのだ。
このように人を殺め、なおかつ牢屋に入らずに済む流れを掴むためには、計画性よりも偶然性が大事になる。「たまたま無事に殺せた」と述懐できるような機会を待つばかりだ。
話を戻すと、まずは相手を殺す気になることからベクトルは殺人に向くわけなのだが、ぼくは正直なところこのベクトルを好んではいない。だからため息が出てしまうのだ。
馬鹿工員を殺した時も、心のどこかで「しょうがないな。今殺せるんだから今殺さなければ」と諦めに似た思いを抱きながら、妻から誕生日に貰ったジバンシーの革手袋をはめて首を絞めていた。過去の殺人もそのすべてが楽しいものではなかった。
散らかす者がいれば、片付ける者もいる。
片付けが終わると、世界は少しだけ生きやすくなる。
人の生きやすさの邪魔をするのは愚者だ。
人類は「愚者をどうするか」を命題にしている。
ぼくはその解を持っているのだが、式を書くのが難しい。
詩的に表現させてもらうと、時間と空間、多様なエネルギーが和声を鳴らしたタイミングを逃さずにぼくは生きていた。
ぼくは、いつ岸本を殺せるのだろう、とはなるべく考えないようにしていた。
その時が来たら為すし、その時が来なかったら為せない。ぼくのライフスタイルは大物のマグロを釣ろうと奮闘する漁師に近かった。
昼の休憩時、宮本がフロアに訪れ、残業になりそうかと尋ねてきた。
「今日は一時間ほどあるかもですね」
「そうか、俺は先に『キラキラ』に入ってるよ」
行きつけのスナックでの待ち合わせも、ベクトルは殺人に向いている。
今晩、宮本を殺せるかどうかはまだわからない。
ぼくの毎日は、ずっとこんな風だ。
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