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連載小説 「死神捕物帖」(4)

 4

 トーヨー電基を出て二十分ほど歩くと雑居ビルが建ちならぶ繁華街に着く。
 味気のない景色が広がる国道の太い歩道を行き、二度角を曲がった道の先に見える明るいそのビル群は、さながら工員たちのオアシスのようだった。
 駅前方面にチェーンの大衆居酒屋が数軒あるものの、工場街で働く中年男性のほとんどはこの雑居ビルが集中する富野町に酔いを求めている。雑居ビルにはスナックやメンパブ、ラーメン屋などが入居し、一軒一軒の価格帯は都会のそれよりもずっと安い。仕事を終わらせた郊外の独身労働者たちはこの富野町で一杯ひっかけるか、その先にあるパチンコ屋で時間を潰す。
 仕事明けの薄暗さが遠近感を狂わせているのか、ビル群にたどり着くまでにいつも想定より時間がかかる。この時間感覚のちょっとした歪みが、あの辺鄙な地点にあるささやかな繁華街に希少価値をもたらしているのではないかとぼくは疑っている。ここいらの労働者たちはいつも遭難しているような意識があり、あのすぐにでも掴めそうで掴めない淫らな光に向かう足を止めてしまったら、自分の命はもうないとでも錯覚しているのだろう。

 スナック「キラキラ」はひと際小汚いビルの三階にある。
 店の入り口に背を向けてボックス席に座る宮本は蛇のように身体をくねらせ、ぼくに横顔を見せた。
「平塚、今日もお疲れさまだ。ほんとにお疲れさまだよ」
「宮本さん、お疲れさまです」
「お疲れさまだよ。ほんとに。あんなつまらない仕事を毎日毎日毎日……」
 宮本はまるでそれがぼくに向けた丁寧な挨拶であるかのように、向かいに座るママの琴美とぼくを交互に見ながら、いかにトーヨー電基の仕事が退屈かを演説しだした。ぼくは宮本と同じソファに腰掛けてから上着を脱ぎ、さも興味がありそうに彼に目線を送った。
 宮本は愚痴か他人への誹謗中傷ばかりを話す。
 さも自分の意志に関わらず、見えない力のせいで今の自分はこうなのだとでも言いたげな被害者意識とコンプレックスが、常に彼の中に充満している。もしぼくが彼に的確なアドバイスを投げかけるなら「じゃあ、死んだらいいんじゃないですかね」の一択しかない。これっぽちもブレずにつまらない話をすることができる宮本は、もしかしたらある種の話し上手なのかもしれない。そんな戯言が脳裏に浮かぶほど、彼は始終そうなのだ。
 テーブルの上にはマッカランのボトルがあった。
 宮本は製造部の工員の倍の年収をもつ、持ち家に暮らす妻帯者だ。結局のところ彼は愚痴と罵詈雑言を吐くのが好きなだけで、これが誰からも疎まれる原因のひとつになっている。

 宮本哲治。
 経理部主任。
 元・大手建築会社社員。
 四十八歳。

 あの人、こっちが忙しくしている時に平気で話しかけてくるんすよお。それも全然面白くない話ばかりで。
 宮本さん、この前あたしのブラジャーがブラウスから透けてるって、急に後ろから話しかけてきて、ほんとに気持ち悪かったわ。
 クソ宮本、あいつマジで新入社員より使えないっすよ。役職あるくせに責任逃ればっかりするんすよ。いまどきパソコンもろくに使えないし。
 宮本主任ってこのあたりのデリヘルでブラックリストらしいっすね。あの人、気持ちわりいもんなあ。
 エトセトラ、エトセトラ。

「あら平塚さん。ごめんなさい。おしぼりも出さずに」
「なあ、まあそういうことなんだよ。だから、しっかりな。しっかり。俺みたいにな。うん……」
 宮本の演説がしりつぼみになった頃、琴美はカウンターに戻り、電卓を打ったあとグラスを持ってきた。
「お前は。お前はあ。安い焼酎でも飲んでおけえ。ぐははははは」
 ぼくはまだ入店してから「宮本さん、お疲れさまです」以外の言葉を発していなかった。
 もしかしたら完全に沈黙したままで解散までこぎつけることができるかもしれなかったが、むやみに妙な行動を取る必要はない。
「宮本さん、お疲れさまです」
 ぼくはもう一度同じ台詞を口にし、いいちこの水割りで満たされたグラスを彼に向けて捧げ持った。

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