短編小説「中の人たち」

　電車の中で歯糞を指でほじくるのが、三橋幸人の癖だった。
　車両がまるでこの世の終わりのように空いていようが、まるでこの世がゴム無しセックスキチガイだらけだった証のように混んでいようが、三橋幸人は人差し指や親指を思い切り口の中に突っ込んで、歯に挟まったイカ、ホルモン、ニラ、ネギの筋などを取り払い、最後には爪で歯の表面を磨くのだ。そうして爪にたくさんの歯糞が溜まると、彼は流れるような仕草で指をしゃぶり、満足げに目尻を下げるのである。
　この一連の動作はあくまで無意識に行われているため、三橋幸人に羞恥心はなかった。三橋幸人の灰色のスーツの襟元にはいつも大量のフケが付着していたことも相まり、電車の中で彼の歯糞ほじりをうっかり見掛けた者は、老若男女問わず、不愉快な気持ちになった。なんと汚らしい行いをする人がいるものだ。電車の中であんなことを平然とこなすような人が、背広を着てビジネスバッグを持っている。こんな常識知らずの汚らしい男でもどこかしらの企業に務めることができるというのだから、この国が澱む理由もよくわかる。大口をあけて歯をいじくる三橋幸人を八秒ほど眺めた女子大生、若松香は、その後合流した彼氏、大浦賢治に「きっとわたしが見たあの中年サラリーマンは気が狂っている」と言った。若松は続けて、「もしわたしがあの人が通う会社の社長なら、絶対にクビにする。だって、まともじゃないもの」とも言った。大浦賢治は若松香の言わんとすることがよくわからなかったが、一応は「それはそうだ」と応えた。その後、二人はラブホテル「アラビアン・ナイト」に行き、一泊した。大浦賢治は若松香にアナルに挿入するように乞われたが、最近、体調が良くないからと断った。
　大浦賢治はよく自室で自慰行為をしていた。
　中高校時代に好きだった女性たち──藤堂叶、佐藤ほのか、梶原早苗それぞれとのセックスを想像して、自慰行為をするとあっというまに果てた。若松香とのセックスも嫌いではなかったが、事実、体調次第では消化不良に陥ることがままある。それでも自慰なら体調に関わらず毎度、心地よい射精を迎えることができるのだ。特に佐藤ほのかとの想像のセックスは毎度、極上の快楽を手に入れることができるため、大浦賢治は日に日に、どうにかして現在の佐藤ほのかに会うことができないだろうかと妄想を膨らませていた。
　大浦賢治は佐藤ほのかが既婚者で、二人の子供を産んでいることを地元の友人、真島智彦から聞いていたが、むしろそれを好条件と思っている。
　しかし、当の佐藤ほのかは大浦賢治と学び舎で過ごしていたころの記憶はほとんどなく、目下の意識の大半を占めているのは、夫、上野一との体良い離婚についてであった。
　上野一は概ね外面が良く、その快活かつ謙虚な態度は誰からも好かれていた。それは佐藤ほのかも、この人なら、と結婚を決めた要因の一つであった。だがいざ結婚してみると、上野一はとんでもない男尊女卑思想の持ち主で、兎にも角にも感じの悪い結婚生活が待っていた。妻に対してはやたらと言葉遣いが荒く、「女なんだから」「俺の妻として」「お前にわかるわけないだろ」という言い回しはもう何百回も吐かれている。上野一が高給取りで、ときどきは人並みの優しさを見せることもあったせいで、何となく子供を作ってしまったが、佐藤ほのかが三十五歳になった今、全ては彼女の後悔の対象になっていた。選択ミスだった。やり直さなければ、死ぬまで、この楽しくない時間が人生の半分以上を侵食する。中一になったばかりの長男、上野夢生もまだ小学四年生の長女、上野最美も、上野一に似てきたのか、母親である自分をどこか馬鹿にしているようだ。子供たちの真の笑顔は母親の失敗を嘲笑うときにだけ現れる。先日も、豚汁を作る際に人差し指の先を切った佐藤ほのかを見て、上野夢生も上野最美も、大いに笑ったのだった。

　三橋幸人のSNSアカウントのプロフィール欄には「つまらなきこの世を面白く！　物言いはきついかもしれませんのでフォローリムーブご自由に」とある。アカウント名はドラゴンメイル。
　若松香は「韓ドラ/コスメ/ネイル」。アカウント名はfriendship。
　大浦賢治は「考察アカ。社会はすべて実験の場と言っていいでしょう」。アカウント名はぬる八さん。
　藤堂叶は「みんなやってるからやりました」。アカウント名はKANA。
　佐藤ほのかは「自国強化のために自民党は欠かせませぬ！」アカウント名は日ノ本ハート。
　梶原早苗は「鬱です。近寄らないで」。アカウント名はゼルダ。
　真島智彦は「主にミリタリー」。アカウント名はアイランド。
　上野一は「行動しないと始まらない。福祉関係者」。アカウント名はUeno Hajime。
　上野夢生は「あのちゃん命」。アカウント名はドリーム号。

　上野最美には成人したのち、ほどなくしてシャブに溺れる未来が待っている。