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この世界はどのようにして生まれたのか

少しばかり「この世界はどのようにして生まれたのか」という面白そうな問いについて考察してみたい。

古来より人は「この世の始まり」を、神話として大切に大切に語り継いできた。

最も有名な神話は旧約聖書「創世記」であろう。冒頭、天地創造の流れがこのように記されている。

神が天地を創造した初めに
地は荒涼混沌として闇が淵をおおい、風が水面を吹き荒れていた
「光あれ」と神が言った。すると光があった。
神は光を見てよしとし、光と闇とを分けた。
神は光を昼と呼び、闇を夜と呼んだ。
夕となり朝となって、一日が終わった。

日本の「古事記」も、この世の始まりについての記述から始まっている。

天地初めて発れし時に、
高天原に成りし神の名は、
天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神。
此の三柱の神は、並に独神と成り坐して、身を隠しき。

アメリカインディアンのピマ族ではこう語り継がれていたようだ。

初めは、どこもかしこも暗闇ばかりだった
暗闇と水しかなかった。
それから、ところどころで暗闇が集まって濃くなったかと思うと、
別れ始めて、しまいにはその暗闇の集まりのひとつから、
ひとりの人間が生まれた。

他にも、この世の始まりについてのお話は世界各地で多種多様なバリエーションで語り継がれてきている。

我々の生きる現代社会において最も広く信じられている創世神話は、おそらく、ビッグバン理論であろう。Googleで「ビッグバン wiki」と検索すれば、誰かの書いたわかりやすい説明にアクセスすることができる。

ビッグバン: Big Bang)とは、宇宙は非常に高温高密度の状態から始まり、それが大きく膨張することによって低温低密度になっていったとする膨張宇宙論(ビッグバン理論 (Big bang theory))における、宇宙開始時の爆発的膨張。インフレーション理論によれば、時空の指数関数的急膨張(インフレーション)後に相転移により生まれた超高温高密度のエネルギーの塊がビッグバン膨張の開始になる。その時刻は今から138.2億年(13.82 × 109年)前と計算されている。

このビッグバン理論に「いや違う!」と異議を唱える人は少ないだろう。
それどころか、

世界はどのようにして生まれたか?

と言う質問に対して、多くの人は、ビッグバンという言葉を持ち出すか、わからない、興味がないというような旨の回答になると思う。

当然と言えば当然だ。

最高峰の知恵が結集され構築されてから、世界中の鋭い批判や反駁に耐え続け、世界中の莫大なリソースが投下され磨き上げられてきた(であろう)ビッグバン理論を尊重するのは、理にかなった行為に思える。

ところで、我々の祖先であるホモ・サピエンスが、現代社会を作り上げるに至った決定的なブレイクスルーは、彼らがある日「虚構(フィクション)」を創り上げ共有し始めたことだ、という説がある。サピエンス全史というベストセラー本に書いてあった。

この本によると、人々がお互いを認識し信頼し合うことのできる限界は150人程度だと言われいていて、それ以上集まるといくつかのグループに分解してしまって組織的に活動できる規模が制限されてしまうばかりか、争いに発展することもあるのだそうだ。

しかし「虚構」を共有すれば、この限界をいくらでも超えることができる。

この森には、シシガミ様がいて、シシガミ様に感謝をしていれば、たくさん食べ物を分けてくれる。

この「虚構」を信じた者たちは皆、200人だろうが、10,000人だろうが、「シシガミ様に感謝をすることで食べ物を得る」という活動を協力して行うことになるだろう。

キラキラと光る貝殻は美しいから持っていると、良いことがある。
だからこれは鹿の角と同じくらいに価値がある。

例えばこの「虚構」を信じたものたちの間では、物々交換が始まるだろう。

彼女は星に守れた特別な人なので、彼女の言うことを聞けば星に守られる。

彼女が実際に優れた能力とリーダシップを持っていれば、この「虚構」を信じることで、多くの人が、自力で生きていくよりも安心して快適に暮らすことができたかもしれない。

他にも例を挙げれば枚挙にいとまがない。

このように、さまざまな「虚構」を大勢で共有し、信じ、それに則って協力することにより、さまざまなことが可能になった。すなわち、ホモ・サピエンスが誕生し、爆発的な文明化への道を歩み始めた最も劇的な瞬間は、「虚構」を語り始めた時なのだ。

とっても面白い仮説ですよね。ただ、何となく「虚構」というと響きが良くないので、私はこれを「物語」と言い換えたいと思う。「神話」でもいい。

人類が語り始めた物語はどんどんどんどん膨らんでいき、それとともに共同体が形成され、拡大し始めた。

豊かな土地に住む人々が狩猟採集に費やす時間は一日にせいぜい3〜4時間ほどだったので、彼らには時間があった。火を囲んで話したり、踊ったりしていたんだと思う。それが何年も何年も繰り返された。物語は体系化され洗練されたものになっていったに違いない。

それに、生命の誕生と死は、彼らにとって最も重要な関心事だったはずである。

すると当然、どこかのタイミングで「この世の始まり」という形而上学的命題に辿り着いたはずだ。

そんな訳で、冒頭にあげたような天地創造の神話が生まれた。

天地創造に始まる体系化された一連の神話群は、星や月や焚き火のほかに明かりのない暗い暗い夜の時間を安心して過ごしたり、死の不安を和らげたりするのに大いに役立っただろう。

集団に規律をもたらし、生活にまつわる物事や周囲の現象を理解するためのテキストとしても機能したはずである。

だからこそ、人々はそれを大切に語り継いできたのだ。

私たちの住む現代社会において、例えば「この世界が生まれた時に三柱の神様がいた」と文字通り信じているものはどれだけいるだろうか。

「この世界が生まれた時に三柱の神様がいたんだ!」と真剣に訴える人がいたとしよう。
初めのうちは何かの冗談だろうと周囲のぎこちない笑いを招くことになるだろう。彼がそれを真剣に訴えれば訴えるほど、しだいに滑稽な様相を呈することになり、あまりに度が過ぎると怖がられてしまうことになる。

かつて輝きを放っていた創世神話の数々は、今や私たちの生活に何の関わりのない情報、文字通り「虚構」の一つ、に成り下がってしまっているように思える。

一方、ビッグバン理論をはじめとする自然科学的な見地での宇宙誕生の理論は、新たな発見がある度に科学誌や時にニュースを賑わせ人々の関心を招く。

それはおそらく、過去数世紀にわたって、「自然科学と彫られたカードキー」が次々とドアを開け放ち、人類を先入観と妄想に満ちた暗い無知の部屋から開放してくれたからであろう。
自然科学の鍵は、私たちに多くの知恵や気づきを、豊かさや平等を、地球規模の課題を解決する力を、iPhoneや食洗機や新鮮なトマトなど、あらゆる宝物を授けてくれた。
だからこそ人々は、宇宙誕生の手がかりとなるような新たな観測データや仮説に喜んで関心を向けるのである。

しかしながら、どんぐりの背比べというのが実際のところであろう。

それがいかに科学的に正しい言説であろうと「世界のはじまり」についてのどのような理論も、私たちほとんどの人間とっては生活レベルでの影響を与えるような類の情報ではない。

「この宇宙はビックバンという爆発によって生まれたんだ!」と真剣に訴える人物がいたとして、現代社会の標準的な人物の抱く感想は「どうした急に」だと相場は決まっているのである。

これが、「この世界がどのようにして生まれたのか」という問いの、現代社会における立ち位置なのだ。

(さて、袋小路にはまってしまったようなので、別の階段を登ってみよう)



さきほどの質問を少しだけ変えてみると、どうなるだろうか。

「なぜこの世界は存在するのか」

さきほどの問いとはまるで雰囲気を異にしている気がする。
あるいはこんな質問はどうだろう。

「なぜ私は存在するのか」

もう少し具体的な質問に置き換えてみてもいいかもしれない。

「なぜ私は生まれたのか」
「なぜ私はこのような経験をしているのか」
「なぜ私はこのような生活を送っているのか」
「なぜ私はあの人と出会ったのか」
「なぜ私はこれを愛するのか」
「なぜ私は・・・」

どんどん問いが湧き出てくる。

「なぜ私は・・・」に始まるこれらの問いは、私たちの生活や行動に致命的な影響をもたらす可能性を孕んでいるように見える。

それは、これらの問いが、私たちの世界観や人生観に関わる問いだからだ。

現代社会の伝家の宝刀「自然科学と彫られたカードキー」を手にした人類は、基本的にあらゆる問いの書かれた扉を開け放つことができる。開かないものもいくつかあるが、人類の叡智を結集し、こう調整すれば開くだろうという何となくの見立てはある。これは素晴らしいことだと思う。

ところが、不思議なことに、「とある領域」の扉を前にすると「カードキー」は全くもって無用の産物と化してしまう。

その領域を進んで行くには、別の鍵が必要となるのだ。

その鍵には「物語」と書かれている。
そう、かつて我々の祖先が手にしたものと同じやつだ。

もしあなたがその「とある領域」に迷い込んだとして、まだ鍵を持っていなかったとるする。
その時、あなたの取るべき選択肢は二つある。

ひとつは何もしないこと。
別に気にしなければいいのだ。
「とある領域」の扉を開けるような面倒な真似をしなくても幸せを感じることができるし、それに生きていくのにやるべきことは他にもたくさんある。

もうひとつは、自分で鍵を創ることである。
その領域で必要な鍵は、例のカードキーと異なり、自分で創り上げなければならない。

かなりたいへんなことだと思う。

だが、私は後者を強くおすすめしたい。
強く、強く後者をおすすめしたいと思う。

理由は二つある。
一つに、それが楽しいからである。
物語を語ることほど面白いことはない。特に、共に時を過ごしてきたような近しい間柄の人々やリスペクトし合う間柄の人々と、お互いの物語を語り合うことの喜びは、ちょっとやばいくらいに喜ばしくて楽しい。

二つ目の理由は、これは仮説の域を出ないのだが、「素材」がそれを求めているから、というものである。
「素材」とは、冒頭にあげたような数多ある神話や宗教的な教え、かつてこの星に生まれ、去っていった人々の送ったひとつひとつの人生、文学やあらゆる芸術、科学の解き明かしてきた事実。
そして、あなたのまわりで日々生じる出来事、思い出、共に過ごす人々、嫌いな人の顔。とにかくあなたの意識にのぼるあらゆる物事、経験のことだ。

それらが、あなたに物語を、神話を語るように求めているのだと、私は考えている。だからこそ、あなただけに舞い降りてきたその素材を使って、鍵を作ってほしいのだ。

私が占星術という体系を使ってやりたいのは、人が鍵を作る手助けをすること。いや、手助けというより、人の創り上げた鍵を祝福し、できることなら、そこに私なりのエッセンスを注入してその過程を楽しみたい。だからもしかしたら、「占い」とは少し違うのかもしれない。

人は将来、かつて狩猟採集民が多くの時間、火を囲んで物語を語って過ごしたように、自由な時間が増えるに連れて、自分だけの物語に時間を費やすようになると確信している。
なぜなら、時間を楽しむ方法として最強だからである。

私の人生に登場してきた友人たちと焚き火を囲み、彼らがそれを許すなら、お互いの人生にロマンとファンタジーを溢れさせたい。

私はそんなことを考えながら、占星術の勉強を進めているわけです。

さてさて、長くなってしまいました。
私は毎回こんな感じで

こうなりたい!

で結ぶ記事ばかり書いてますが、
何かを目指すときにまずやるべきことは目的を明確にすることですので、よしとしましょう。

これからも占星術家のような何者かを目指す修行の道を暖かく見守っていただければ幸いです。

このnoteでは引き続き、あなたにとっての、私にとっての物語の「素材」をパラパラと散りばめながら、ゆるく記事を積み重ねてまいります。

次回はさきほど少し触れた「とある領域」の話だったりをしようかなと思います。

では ◡̈


P.S
この記事はジョーゼフ・キャンベルの著書からたくさんのインスピレーションを得ております。

気になる方はぜひ読んで見てください。『神話の力』がわかりやすいです。


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