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SS ② 「暑い日に階段を下る」

暑い。今日も気温30度を超えた。半袖ノーネクタイでも汗が止まらない。

タオルハンカチで額と首を拭きながら、営業回りで歩く。この街は坂が多いので、下りにくるとホッとする。今も緩い下りをトコトコと小刻みな歩幅で歩いていくと、道の先に下り階段が見えた。ちょうどマンションの陰になっていて、少しは涼しそうだ。

日影の涼しさを味わうように、1段をゆっくりと下る。3段目に右足をついたその時、いきなり落ちた。

「あっ」と叫んだが、30秒ほど経ったところで妙に落ち着いた。何が起こったのかさっぱりわからないが、周りは360度灰色で、その中を落ちているらしい感覚だけがある。灰色以外には何も見えない。とんでもないところに入ってしまった。入るスイッチがどこにあったのかわからないのだから、出る方法もわからない。そのうち、底に着くのを待つしかない。

しかし、これだけの時間を落ち続けているのだから、着地の衝撃は相当なものだろう。運動もせずに毎晩ビールを飲むだけの緩みきった自分の身体では耐えられないのではないか。心配がわき起こり、冷や汗が流れて来る。暑さの汗で既に湿ったシャツはその汗を吸ってくれないから、気持ち悪さもひどい。せめて、着地できると思えるだけの鍛えた身体であったら。そんな思いが頭を占める。

それにしても、終わらない。底に着けない。まさかこれが永遠に続くのか。もし飛べたなら、この落下を止めて、上に戻れるのではないか。上に出口があるのかどうかは知らないが。今度はその考えが頭を埋める。

突然、階段の下に着いた。何の衝撃も無い。マンションの影の切れ目が足元のアスファルトに見える。首を回してみると、さっきまでいた場所だ。ただ、10数段の階段を降りていただけ。なんだったのか。暑さで半分気絶しながら朦朧と階段を降りていたのが、さっきのおかしな感覚になっていたのか。

シャツが妙にきついのに気づく。ズボンの腿回りもぴっちりで破けそうだ。汗で縮んだのかと思いきや、腕と脚が著しく太くなっていた。マッチョ体型。そこに、さあっと風が吹く。背中が引っ張られる。手を後ろに回すと、何かがある。スマホをポケットから取り出して、自撮りカメラで見てみると、翼が生えていた。鳥の翼とは違って、硬くて薄い翼が折りたたまれている。引っ張っても取れない。現実だ。

動転する頭で考える。さっき、灰色の中を落ちているときに思ったことだ。
あの状況なら誰でもあの様に思うだろう。別に日頃から願っていたわけじゃあない。なんでこんなことになるのか。実現するとわかっていたなら、別なことを考えればよかった。欲しいものはいくらでもあるのに。

階段を上って、もう一度同じ様に1段ずつ下ってみる。5回やった。でも、もう落ちることはなかった。

現実を受け止めて、翼よ広がれ、と念じるとスパッと開いた。下から5段目、そこから前方に飛び込む様にジャンプしてみると、飛べた。体が宙に浮かび、すうっと上昇していく。

一度地上に降りて、考える。この世の中、スーパーヒーローって食べていける仕事なのだろうか。
 

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