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覆水盆に返らず


なんでもない日の静かな夕方。昼から少し暑さは遠ざかり、絡みつく熱は定期的に外に出ていく。いつの間にか溜まっている水が、目尻を伝って耳の横を通る。
赤と紫が混ざったような空。薄いカーテンの隙間から見えるその景色だけでもう十分だ。
それ以上を欲してもないし、もう求める意味がない。
三六五日のうちのたった数日。
この日のために、死んだように生きる。
ワンルームの小さな部屋。冷たいシーツの上に、顔を伝った水が染み込んでいく。
テレビのニュースもオリンピックの熱を失って、少しずつ前に戻っている。
「ねえ、今日の夜ご飯なににする?」
天井に向けていた顔を右に向けると目の端に彼女がいた。座椅子に座りながらテレビを見てくつろいでいる。
「おかえり」
「うん」
立ち上がった彼女は、ベッドの端に腰を掛けてこっちを見つめる。
「そんなことより、夜ご飯どうするの?」
急に鳴き出したセミと彼女に急かされながら答える。
「まあ、なんか出かけたくないし。ピザでも頼もうか」
呆れたような表情と仕草で彼女は言う。
「そんなんだと、モテないよ~」
ベッドから立ち上がり座椅子に戻る彼女。それに合わせて、俺は体を起こし電話をかけた。

ピンポーン。インターフォンが鳴って、頼んでいたピザが届く。
「早いね~。もう届いたんだ」
「そうね、近くに新しくできたからだよ」
「そっか、一年で変わったね~」
いつの間にかセミの鳴き声は無くなっていて、遠くに車と人の話し声が聞こえるだけになっていた。
静かな時間を感じかけると、彼女は話しかけてくる。
今年は、どこに行こうか。山が良いとか、海が良いとか。ちょっと贅沢に沖縄に行ってみたりして。そんな、たわいもない夢の話を彼女はずっと投げてくれる。
ベッドの上に寝転んで彼女は言う。
「ねえ、ちゃんと一緒に考えてよ」
「考えてるよ」
少し悲しい笑みで彼女にそう言った。
テレビで勝手に流れる世界遺産の番組を見てはここに君と行きたいと思い、仕事のついでに行く様々な観光スポットで、君を連れてもう一度来たいといつもそう思う。

肩の下まである長い髪を広げて、ベッドの上に寝転びながらこっちを見つめている君がいる子の時間は、きっと君の意地悪なんだと思う。
キミを優先しなかった、そんな俺へのあてつけ。

俺は、三日間外に一歩も出ることは無かった。
彼女と、水飴みたいな甘く冷たい三日間を過ごした。
「今日は何食べる?」
「適当に、そうめんでも食べようか」
「いつも、自分の食事には手を抜くよね。いつも作ってるのは分かるけどさ」
そう言って、少しのぐちをこぼされながら、麺を茹でる。
少し大きな皿の上に笊をそのまま乗せて、テーブルへ。適当な汁入れを二つテーブルに置く。
「まあまあ、美味いわ」
「ねえ、顎についてるよ」
そう言って、指をさして笑う彼女は、いつも変わらない笑顔だ。
そうめんを食べ終えて、一息ついていると、ベッドの上で寝転ぶ彼女が言った。
「来月はちゃんと、忘れないで私の好きな花持ってきてよ」
「分かってるよ。今度は俺が会いに行くから」
「うん。待ってる」
そう言った彼女は、少しだけ嘘くさい優しい微笑みを浮かべていった。
少しだけ静かになった部屋は、お祭りが終わった後のようなそんな空気が流れている。
笊と皿、箸と汁入れを一つずつ洗い。乾かす。
座椅子に座ってテレビを点けると、八月十七日の天気が流れている。夕方は雨に注意しなければいけないみたいだ。
携帯のバイブレーションが狭い部屋に鳴り響く。
「料理長。今夜の予定なのですが…。」
綺麗に揃えられた、シャツを着て、ハンガーラックに掛けたシルクのスーツを着る。
赤と紺、ストライプ柄のネクタイを締め、そのまま外へ飛び出した。

もうすぐだ。いつの間にか夏が過ぎて、会いに行く季節になる。
なぜ君がその花を好きなのか分からないけど、必ず買っていく。
僕をいつまでも離してくれない君みたいに妖艶な毒を持ち、それでいて君みたいに美しく咲き乱れる。
少し哀しいその花の花言葉は、

思うはあなた、ただ一人。

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