一言の寿命

 大学一年生という響きで初々しいと言われるが、もう19年も自分をしていて今更その言葉はしっくりこない。所属が変わるたびに初々しいと形容されるのはやりなおしのチャンスなのだろうか。ありがたいが数年おきに訪れる強制的なチャンスなんて余計なお世話だ。もしかしたら人間が経験を積み重ねるのを不都合におもう存在がいるのかもしれない。
 19年。
 今日で19歳になった。特に感慨もないし、誰から祝われることもない。地元を離れて進学したから知り合いもいないし、誕生日を自分から広めてプレゼントをねだるほどの明るさもなかった。
 正直この日が苦手だ。おめでとうと言われるのが好きじゃない。他人の生を無条件で無責任に祝うなんて無関心じゃないだろうか。愛の反対は憎悪ではなく無関心だなんていうけれど、反射的に口をついた五文字ほど虚しいものはない。こんな自分だから愛の彩る眩しい五文字に出会えないなんて、そんなことは分かっている。なぜなら19年も自分と毎晩対話してきたからだ。明ける夜を恨み、落ちる日を呪う。つまらぬ人間だった。
 誕生日は自分が主役だよ、なんて、寝言を吐くなよと言いたくなる。毎日自分が主役ではないのか。物語を背負うのは嫌だけれど誰かの影で生きるのもつまらない、そんなおいしいところだけかじっていいならあの日のケーキは腐らなかっただろう。いちごが苦手な人間が嗜好を開示するのにどれだけ覚悟を要することか。他人をコンテンツとして消費する人間たちに目をつけられたら一瞬だ、誰かが主役の作品に出演させられるのは避けたい。自分が主役で、かつ誰の目にも触れないような作品になりたい。それがせめてもの願いだった。
 今日という日を全く意識せずに過ごす人間を想像し、できるだけ丁寧にそれをなぞった。いつも通りの日々を再現して大学の図書館で参考文献を借り、いつもの火曜のように授業に出て、いつもの放課後のように先輩が数人黙々と作業している研究室のフリーデスクでレポートをする。一限の時間に研究室にいなかったら罰金、というシステムを導入して八日目の先輩たちが全員帰った二十三時、あと一時間を家で過ごす勇気がなくてもう少しレポートを進めることにした。十二月の夜、ぼろぼろの校舎は旧式のエアコンで太刀打ちできるほど優しい場所ではない。一人になるとやたら広くなる研究室は無力な人間の不安を煽って楽しんでいるようだ。エンターキーとバックスペースキーを交互に三度ずつ叩いている自分と埋まらない白紙はどちらも哀れで、一度気分転換を挟むことにした。

 もし大学を作るなら、自販機は校舎内に設置した方がいい。エナジードリンクやコーヒーの類を扱っているならなおさらだ。購買があるだろうなんて反論はナンセンスで、大学生は二十四時間活動する生き物だから有人のサービスで対応するにはコストがかかりすぎる。そこまでしてもらうほど高尚な理由で一日中大学にいるわけではない、ただ居場所がなくて自分の価値を見出せていなくて孤独の味に慣れてないだけだ。
 人は自販機を外に置きたがる。彼らが外でも生きられるからだとしたら、それは人の甘えだろう。厳しい環境でも生きられるからといって優しさを受け取る権利を失うなら誰もがんばらなくなる。優しくされるために生きるわけではないけれど、厳しさを味わうために生きているわけでもないのだ。
 研究棟から購買や学食の入った二階建ての建物まで外を歩いて五分ほど、乾いたカップ麺が柔らかくなるほどの時間だ、人間を凍えさせるには十分だった。すっかり冷えた指先を白い吐息で温めながら学食小屋――犬小屋のような見た目を揶揄してそう呼んでいるが教授たちは学生の悪ふざけを気に入らないようで見つかると強く咎められる――の前に設置してある自販機へたどり着く。およそ二年前、高校卒業時に買った長財布から氷のような小銭を取り出してほのかに光る鉄の塊に喰わせる。選択肢の半分ほど赤く灯っているのが気にいらない。いつも同じ白い缶コーヒーしか選ばないくせに、そしてそこは赤に侵食されていないのに、それでもなぜか不愉快だった。
 しゃがんで温かい白を受け取ると、触れている指先から溶けていくような感覚。自分の血流が少し痛いほどで、なんだか滑稽だった。寒いときは内側から温まらないと意味がないよ、なんて言ってきたのはバイトの先輩だったかな。余計なお世話だ。そんなことできるならそもそも凍えていないのだから。
 よっこらしょと立ち上がると、右後ろから手が伸びてきて小銭が投入された。心臓が跳ねる。
 あまりに近い他人の気配に驚いて振り返ろうとすると、背中に点が触れて動けなくなった。この指を知っている。細くて白い、賢い指だ。
「同じのにしようかな」
「あ、はい」
 やっぱり貴女だった。小さくて抑揚のない声なのに、世界が一瞬で貴女の色に染まってしまう。言われた通りにもう一度温もりを自称する白を選び、しゃがんで手に取る。先ほどまでは自分にとって唯一だった優しい白も今となっては特別な価値のないただの物体にすぎなくて、既に温まった掌もコーヒーのおかげではなくて高鳴る鼓動のせいじゃないかなんて、どれほど身勝手なのだろう。それでも態度を変えず同じ物体を寄こしてくれる、こういう奴は信頼に足る。自販機に払う三十円を許せる気がした。



 すっと奪われたのは既に少し冷え始めていた一本目の缶で、手から離れていく滑らかな感覚を追うように振り返ると長い黒髪が数歩先を揺れている。
「ちょ、何してるんですか」
「それお誕生日プレゼントね」
 ふふ、と笑う学科の先輩は寒さで頬がほんのり染まっていて綺麗だった。細くて小さくて、それなのに絶対的な何かを持っている。彼女に干渉できるものはこの世にないと思えるような存在感。
「なんで亜美さんが知ってるんですか」
「あなたの学年の世話役だからね、最初に名簿もらってるもの」
 Aラインの紺色コートを揺らしてベンチに腰掛けるだけで絵になる。色彩を忘れた冬の景色は彼女を際立たせるためにあるような、彼女は望んでいないだろうに全てが彼女に擦り寄っていく。
 透き通るような白い肌と艶やかな黒はどちらが勝つでもなく調和していて、端正な顔立ちは他学科はもちろん他学部まで名前が知られているほどだ。誰もが憧れているけれど本人は英文学にしか興味がない様子で友人すらいるのか怪しいほど人と関わらない。たしかに世話役ではあったがもう一人にほぼ全て任せていて、彼女に頼んだ教授の狙いは失敗に終わったようだ。
 そんな彼女にこのように話しかけてもらったなんて、知られたら面倒だろうな、なんて贅沢な悩みか。
「今夜は大学でお祝い?」
 隣に腰掛けるのは気が引けて、自販機の側面に背中を預ける。
「いえ、課題の締め切りが近いので研究室をお借りしてました」
「真面目だね。英語学の課題?」
「おれ英語学以外の授業ろくに出てませんからね」
 亜美さんが缶を傾けたので、追いかけて一口飲む。いつもの甘さがすっと広がる。
「好きなんだね」
「そうですね。好きです、とても」
「好きなものがあるのは大切なことだね」
「はい、大切なことです」
 オウム返しになるのは寒さのせいか温もりのせいか。
 自分が何を好きかなんて考える隙間もなく過ごしていた頃のことを考えると、今はとても人間らしく生活できている気がする。好きなものが自分を構成していると考えるなら、ひとつひとつをもっと大切に扱わなければ。その向こう側にきっと見知らぬ自分がいる。
「そんな君に。はい」
 小さな可愛らしいリュックから、小さな包みを取り出す小さな手。文庫本より少し大きいくらいのサイズで、とても薄い。
「えっ、なんですか」
「あけていいよ」
 包みを受け取りベンチの傍で縁石に腰掛け、コーヒーを隣に置いた。包装紙が破けないよう、そっとテープを剥がしていく。
 すると緑の表紙が現れた。
 これは。
 参考文献に欲しかった本だ。
「これ、Barriersじゃないですか、欲しかったんですよ!言いましたっけ?」
「生成文法の概論受けてたから、手元に置いておきたいかな、と思って。プレゼントに手軽なサイズだし」
「いや、すっごい嬉しいです、うわ、X-bar Theoryだ」
 中身をぱらぱらめくっていくと、授業のレジュメや先輩の論文で見た樹形図が載っている。
 そして、最後のページに付箋が貼ってあった。

”生まれてきてくれてありがとう”

 はっ、と笑っていたはずが、笑いながら泣いていた。
「う、わ、これはずるい」
 彼女は何も言わず微笑んでいる。
「これはずるいですよ、こんなの」
 初めてもらった、自分を根本から認めてもらえる言葉。
 この一言に特別な意味はないと分かっている。今まで誕生日にもらってきた形式的なおめでとうの五文字と、根本は何も変わらないのだ。彼女が自分に特別な感情を抱いてくれている訳ではない。ただそれでも、もっともシンプルに自分の存在を許容してもらえたことが嬉しかった。どれだけ泣いても伝えきれないほど、嬉しかった。
「おれ、言葉には寿命があると思うんですよ」
「それは、興味深い考え方だね」
「この言葉の寿命、おれの余命とおんなじくらいだと思います」
 まだ生きられる。少なくとも次の今日までは。
 彼女はもう一度微笑んで繰り返した。
「興味深いね」









***

「クランベリー型形態素」より大学1年生の慶と3年生の亜美。

リライト企画第一弾。2019年8月16日に公開したこちらのnoteのリライトです。

昨日までにあげた上下編をまとめたもので、内容は同一です。




















大好きなマイルドカフェオーレを飲みながらnoteを書こうと思います。