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『閉鎖循環式ビターチョコレイト』上
忙しくはない。それでも日々の疲労が気持ちを重くする。いつも通りに締めたはずのネクタイが苦しくて指をかけながらバックヤードに戻ると、副店長が受話器を置くところだった。目が合う。この人が何を考えているか分からないのはいつものことだった。
「西店がエネルギーゼリー切れそうらしくて、休憩ついでに持って行ってあげてくれませんか。往復で一時間はかかるから、君が店を出て一時間後に休憩入ったことにしておきます。二時間後に帰っておいで」
えっ、と思わず声が出た。外でゆっくり食事ができる。
「いいんですか」
「たまにはね」
力のない目元で微笑んで副店長が表へ出ていく。エネルギージェルはアンドロイドの基礎消耗品で、エネルギーゼリーは疲れた人間が飲むものだ。副店長はどうやら疲れているらしい。
在庫処理用のパソコンが立ち上がっているのは隣で売り上げ計算をしている先輩のおかげだろう。チェアに座っても彼女はこちらに見向きもしない。繊細に描かれたその横顔はきっと有名な画家が手掛けたんだ、なんて考えながら仕事の質問をする。
「ヒガシノさん、当日出庫って備考がいるんでしたっけ」
「うん、西店は今日イベントでしょ?イベントコードを入れておけば事務課に突っ込まれないと思うけど」
「なるほど。イベントコードって通知に載せてありますよね」
「開催設定に使うだけだから載らないよ、店に問い合わせだね」
「あ、そうなんですね、電話してみます」
他の店に電話するのはかなり億劫だ。社内だろうと何だろうと人間は怖い。店の固定電話の着信履歴を開くと西店と表示される。しょっちゅうやり取りをする近隣店舗だからこそ番号を見る機会がなくて覚えられないまま何年経ったか。
「あ、お疲れさまです、南店マエハラです」
『こんにちは、アマネです~。マエさんが持ってきてくれるんですか?』
呑気に可愛らしい声の後ろはかなりざわついている。ちょっと生意気な同期はメンタルが強いし、これで仕事はしっかりできるのだからなんだか腹が立つ。電話に出てくれたのが彼女で少し安堵した自分がいるのも悔しい。
「うん、俺が持ってくんだけど、当日出庫の履歴に残したいからイベントコード教わっていいかな」
『あー、ちょっと待ってくださいねぇ。本当は今朝届くはずだったんですよゼリー。大雨の影響で遅れてるらしくて』
「ジェルは人間用な」
『え?ジェルは食べちゃだめですよ、おいしくないよ』
「お互い疲れてるな。見つかった?」
『ありました!読み上げますね、98315423、341、あっ間違えた、3はひとつで、あ、ふたつめの3がひとつです、ふふ』
言葉遊びをしながら21桁のコードを聞いて、肩で受話器を支えながらキーボードを叩く。一度出庫処理をすると取り下げができないためモニタに並んだ数字を読み上げて確認してから電話を切った。
ジェルパックを段ボールから紙袋に雑に移す。10パックって結構重たいんだぞ。でも外で休憩できるなら悪くないか。それが厄介事の始まりだった。
社用車を運転するのは好きじゃない。ぶつけたらどうしようとか、ガソリン給油のときは領収書をもらわなきゃとか、小さなあれこれで頭がいっぱいになって気疲れする。
軽くため息をつきながら、次の交差点で歩行者用信号の点滅を見てゆっくりブレーキを踏む。普段ならスピードを上げて抜けていただろう、そうしても問題ないタイミングだった。ここの信号は引っかかると長いのだ。赤が灯ってもう一度ため息。ふと少し先の歩道に視線をやるとバイクが無造作に停められていて、傍でしゃがみ込む青年の周囲で数人が電話をかけている。事故だろうか。青年も意識はあるようだし、出血も見られない。打ち身や骨折がなければいいな、病院にも連絡しているだろうし手伝えることはないか、なんて臆病者の希望的観測を脳内で組み立てていると、歩道側の助手席ドアが開いた。
「ちょうどよかった!」
涙でぐしゃぐしゃの女性の顔がこちらを見ている。助手席のドアを開けた女性は泣いていた。そして笑顔だった。嗚咽を上げながら自身の後方を指差す女性を見ながら、開いた口が塞がらない程度では済まない驚きと恐怖、これは狂気だ。
「はぁ?」
初対面の、自分の倍は生きているだろう相手に出すものではない声が出る。精いっぱいの拒絶のつもりだったが、彼女の感情の出力に世界は傾いた。
ひどい有様だった。先ほどの交差点を左折してすぐ、歩道に緑色が滲んでいる。泣き顔の女性も倒れているアンドロイドに寄り添うことで狂気が薄らぐ、あくまで薄らぐだけで消えはしないけれど、それでもいくらかマシに思えた。あの青年のバイクがここでアンドロイドにぶつかってそのまま少し走り抜けたのだろう。状況を理解したい気持ちと社用車を交差点付近に路駐している焦りでパニックだ。
女性が言葉にならない言葉を並べながらアンドロイドを指差している。近づいて膝をつくと途切れ途切れの合成音声が聞こえた。
「内部温度……ピピ、メモリ影……響ノ恐レ……」
短足胴長が顕著な旧式家庭用アンドロイドだ。胸部が潰れてさらさらとした緑色の液体が流れ出している。凝固しない液体は機体中心部のパーツを冷やす用途のものだ、衝撃で内部が割れてしまったのだろう。腹部も大きくひしゃげて亀裂が入っている。この緑色の液体が無臭なのはかなり初期のもの、一度でもメンテナンスをしていれば誤嚥防止対策済みの液体に交換されているはずで、機体もかなり古い上に手入れもしていないならもう買い替えた方が楽だろうな。
そもそもうちの会社で取り扱っていない型番だ。社用車の側面に描かれたアンドロイド取り扱い店のマークを見て、信号待ちの車のドアを開けるほどの人間が契約先に電話できないわけがない。この会社なら大きいし、レスキューダイヤルもすぐ繋がるだろう。
適当に濁して早く立ち去ろう、と口を開こうとしたとき、女性は言った。
「これでおじいちゃんの写真も取り出せる」
「は?」
「この子しか持ってないの、データの移し方とか、よくわかんないでしょ」
「……は?」
「あなたがいてよかった、本当に」
早くしろ、と大きな声に思わず肩が跳ねた。女性の後ろに中年の男性。配偶者、だろうか。いや、待ってくれ、ちょっと。
狂気だ。
初めて見るでかい機械の仕組みなんか知るか。機械なんてどれも似たようなものだと言うなら、人間も機械も似たようなものだと返してやりたい。みんな何を考えているか分からない。
「あの、データってクラウドに共有とか、IDとパスワードは」
知るか、いいから取り出せよ、とまるでUFOキャッチャーか何かのような物言いで、そんなに簡単なことなら自分でやれよと思いながらも怒号に身体がすくんでいる。
横たわるアンドロイドは小さな声で現状を繰り返している。俺よりよほどしっかりしている。お前もこんな思いをしてきたのか、何年も何年も。
なんで俺が。
もう何を怒鳴られているのか認識できなくなっていた。泣いているのか笑っているのかわからない女性がアンドロイドの手を握りしめている。
温度が上昇しているのは排熱と冷却に不具合が起きているからで、メモリはどのメーカーもおそらく胸部に埋め込んでいるパーツに保存するようにしているだろう。
バイクに乗っていた青年は大丈夫だろうか。彼のところに救急車かパトカーがくればこの夫婦にも気づいてくれる、第三者の存在があれば狂気も薄らぐ。どこまで薄めたってこんなの狂ってる。
女性に離れてもらって、アンドロイドの歪んだ胸部をなぞり表面パネルの分割線を探す。左右非対称か。互換性の低い大きめのパネルだ。修理のとき高くつくんだよな。もう修理でどうにかなる段階ではないけれど。機体の左胸の部分に指を押し込んで無理矢理開くと無情な熱が頬を包む。
これは、もうだめだ。
温度の上昇で内部メモリが焼けそうだというこいつの主張が正しいなら、もう手遅れだった。
「どうなるか分かりませんが、電源を無理矢理落とすしかないです。データが残るか消えるかは半々くらいかと」
データを消すな、と男は怒鳴った。いや、そんな、無茶な。女がそれでいいから早くして、と泣く。こんな感情的な人間を相手に同意書もなくデータが消し飛ぶかもしれない選択肢を取るなんて、なんでこんなことになったんだ。どうして車の扉をロックしなかったんだろう。たったひとつのボタンを押すだけでこんな窮地に陥らず済んだのに。
緑色の水溜まりができているアンドロイドの首元に手を入れる。後頭部側にはスイッチの感触がない。つけ根側か?損傷なのか機体の仕様なのかスイッチなのか、触れるだけでは小さな段差の理由がわからなくてのぞき込む。側頭部が地面について、緑が毛先を掴んだ。機体を左手で浮かせながら背中のあたりまで探ると、肩甲骨の間にそれらしきものがある。スライド式カバーを外してスイッチを押し込み永遠のような11秒。
カウントが不安で指先を押し込んだまま顔を上げると、アンドロイドの光る眼球がこちらを見た。
「お、客様ノ設定でハ、非常時ロッ……ロック、メモリ優先」
「くそ!なんでそんな設定かけたんだ!」
軽傷でクラウドに同期をかけているなら確かに有効だ、不慮の事故で電源が落ちてしまうのを防いでデータをバックアップしてくれることだろう、だがこの状況では。この設定をするならデータ保存に関するセットアップまでやれ、この機体を売った店員を今すぐここに呼び出したい、サポート料をケチったなら自分で調べてちゃんと設定してくれ、もう誰でもいいから助けてくれ。
青年には大人が駆け寄っていたのに、ここには誰もこない。アンドロイドの破損なんて誰も気には留めない。俺の姿は道行く人々の目にどのように映っているだろう。
開いた胸部の奥から、とぷっと緑が溢れた。チューブのようなパーツが折れている。電源を入れたまま、液体が溢れる内部を触れるなんて馬鹿のやることだ。せめて臨時メンテナンスモードに切り替えられたら。それには認証がいる。この機体の型番はうちの会社で取り扱っていないが、同じメーカーの違う型番なら取り扱っているから、自分のコードでも干渉できるかもしれない。
汚れた手でズボンのポケットから携帯電話を取り出す。クリーニングに出したばかりのスーツなのに。機体には触れず待っているよう夫婦へジェスチャーし社用車に戻りながら電話をかけた先はジェルを持っていくはずだった西店の内線だった。
『お疲れ様です、西店アマネです」
「アマネ、良かった、マエハラです、今から受領書のコードを読み上げるから入庫処理してくれ」後部座席の紙袋からA4の書類を取り出す。
『あ、マエさん、え、入庫?』
「3875269」
『わ、待って、えっと』
「3875269‐756332‐……」
『分かった、処理すすめるけどどうしたの、すぐ店に戻らなきゃなら途中まで取りに行くよ』
「いや、入庫終わったら俺のアンドロイドに紐づけて購入処理して、4パックを5分後に」
『え、なにそれ』気配が曇った。正気を疑う人間の声音だ、最近聞いた気がする、自分の声で。
「俺の情報分かるだろ、暗証番号は73519746だから」
『待ってそれ口頭で言っていいやつじゃないよ』
「ごめん、頼んだ」気を許した同期の引き留める声を無視して電話を切った。
次は自分の店の内線を鳴らす。重たい紙袋を持って社用車の扉を投げやりに閉める。
『お疲れさま』
聞きなれた先輩の声。自分の携帯番号が登録されていることに驚きつつも、さっき聞いたばかりの澄んだ声になんだか涙が出そうだった。
「ヒガシノさん、すみません、俺の退勤処理してもらえませんか」
『……どういうこと?』
「店にコード残してたら使えないから、あ、3分待ってください、入庫処理終わらないとジェルが浮いちゃうので」
『ちょっと、どうしたの?泣いてるの?』
「本当にすみません、お願いします」
先輩の電話を切るなんて。次会うときどんな顔をすればいいだろう。でも時間がない。毎秒上がる温度が機械の思い出を焼いてしまう前に。紙袋を緑色の地面に落とし、中からジェルパックをひとつ取り出す。こうして怪我をした人型の機械とセットで視界に入れるとまるで点滴のパックだ。サイズはいい感じだが中身が緑色で、決して人間は救わないという強い意志を感じる。バーコードをアンドロイドの掌センサに読み込ませるがアクティブでないと告げる電子音。
焦りを隠さず毎秒読み込ませる。夫婦はいつの間にか静かになっていた。アクティブでありません、に続く、非対応商品です、の声。入庫処理が終わったのだ。それにしてもやっぱりダメか。このジェルは最近のセルフメンテナンス対応機体用で価格が安いかわりに熱で凝固する。千回ほど全身を循環して凝固したジェルを体外に排出し、新しいジェルを補給することで熱を逃がすシステムだ。この機体は非対応か。それでもやるしかない。
次は自分の掌をアンドロイドのセンサにかざす。コードが現在地にありません、という返事。スーツのジャケットを脱ぐと昼間なのに少し肌寒い。冬だったら夫婦も凍えてくれたのに。あと二か月遅ければアンドロイドも助かったかもしれない。
袖を捲りながら認証を続ける。数度目でようやく、コードが未登録です、という予想通りの返事。退勤してコードが開いた。掌センサ上のテンキーでメーカー指定のワードを入れる。所持者でない、またはIDやパスワードがわからない場合のクラウド同期指示用ワードだ。メーカー、作られた時期、機体の用途など、それぞれ設定は違うため普段の営業中は毎回調べるのだが日頃の行いが良いのか一発で機体に指示が通ったようだ。いざというときの人間の脳はどうやらなかなかやるらしい。バックアップ開始の合成音声が流れる。
よし、あとは同期が終わるまでこいつを生かす。
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こんにちは、幸村です。下編は水曜19時公開予定です。
思ってたより長くなりそうなのでがんばります。
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大好きなマイルドカフェオーレを飲みながらnoteを書こうと思います。