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『閉鎖循環式ビターチョコレイト』下
アンドロイドの歪んだ胸部をなぞり表面パネルの分割線を探す。左右非対称か。互換性の低い大きめのパネルだ。修理のとき高くつくんだよな。もう修理でどうにかなる段階ではないけれど。機体の左胸の部分に指を押し込んで無理矢理開くと無情な熱が頬を包む。
これは、もうだめだ。
前回はこちら。
***
「バックアアア、ップ、進捗2%」
歪んだ合成音声が気持ちを焦らせる。黙っていてくれ、と思いつつも毎秒進捗を教えてほしくもある。それにしても通信部品がやられていないのは不幸中の幸いだった。10分もあればほとんどのデータを同期できるだろうから、その間どうにかして機体内の熱をどうにかしなければならない。開いた胸部を観察する。頭部や腕にセンサー、転倒防止も兼ねて重量のある大型部品は全て腹部に固まっているようだ。腹部はもう一枚大きめのカバーで覆われており、あちこちから線が集まっている。人間の腸にあたる空間を埋める腹部部品のカバーに触れると上部は熱いが、下部の温度は問題なさそうだ。
腹部にデータ処理システム、胸部にメモリがあるのか。腹部にはシステムが固まっているから専用の冷却システムがあるに違いない。こちらはなんとか持ちそうだ。問題は胸部メモリ。ここが焼ければおしまいだ。先ほど見かけたチューブの破損が気になる。
メーカー指定のワードを入力した時点で臨時メンテナンスモードに切り替わっているから、稼働は最小限になっている。とは言え絶縁もせず機体の内部に手を入れるほど勇敢にも馬鹿にもなれない。最初に開いた胸部パネルの内側、防水用のゴムパッキンを剥がす。胸部にびっしり詰まっている色彩豊かなコードにゴムを引っかけて、できるだけ自分の手元に近い左胸部に空間を作るよう左右にかき分け、胸部奥が見えてきた。
黒い球体から腹部パーツの裏側に、指一本分ほどの太さのパイプが伸びている。おそらく冷却板があるのだろう。そしてそのパイプが割れて、緑色の液体が溢れている。メモリパーツを黒いカバーで覆って、パーツとカバーの間に液体を循環させて熱を拾い、冷却板へ逃がしているのか。
閉鎖循環式で、冷却板が正常に作動しているのかは確認できない。
大丈夫、まだ予想の範囲内だ。
破損しているチューブが厄介だ。ネクタイを引き抜いて破損部に巻き付け、思いきり引っ張るとうまく割れた。断面から緑色のジェルが飛び散る。
冷却が追い付いていない上に閉鎖循環式なのに循環するものが流れ出ていることで役に立っていないチューブ、こいつをどうにかして活かさなければ。できるだけ重力に逆らわないようにしたいから、背面側だ。機体の詳細が分からない以上他の冷却システムに繋ぐなんてできない、そもそも工具がひとつもない。機体の外から腹部側面を観察する。脇の近くにも分割線がある。ここか。
指を入れて無理矢理パネルを引きはがす。隣から悲鳴が聞こえた気がする、もう気にしている場合じゃない。胸部の太い骨組みが露わになり、その中に先ほどかき分けたコード。よし、これで。
さっき使ったゴムパッキンとネクタイを揃えてチューブに何重にも巻き付ける。いけるか。先端が脇の方向へ向くよう引っ張るが、漏れ出た液体のせいでネクタイが抜けてしまう。もう一度巻き付け、また抜ける。生唾を飲む音が大きく聞こえた。ゴムがきちんと滑り止めになるよう気をつけながら丁寧に巻き付け、ネクタイの上から両手でチューブを掴んだ。熱が掌を焼く。声にならない叫びがうるさい。熱い。力をこめ続けるとゆっくりチューブが変形していく。ゆっくり、ゆっくり、もう少し。コードと骨組みの隙間を通し、チューブの先端が外部に出た。ばっと手を放し反動で尻餅をつく。よし、よし、もう少し。
掌のひりつきを無視してシャツの胸ポケットからボールペンを引き抜く。異動するときに前の店舗の先輩がくれた、名入りのものだ。黒いカバーをペン先で叩く。どのくらいだ。メモリパーツの大きさが分からない。旧式は基本的に部品の小型化が進んでいないから、メモリは大きめ、液体は少なめで回転数多めが妥当なところか。カバーとメモリの隙間はそこまでないなら力加減を気を付けないと。
ボールペンで黒いカバーの表面を削るように刺す。熱のせいかプラスチックが弱くなっているようで、数度試すと簡単に穴が開いた。緑色の非凝固ジェルが溢れてくる、成功だ。
店から持ってきたジェルパックの端を噛みちぎる。ハサミなんてない。昔駄菓子屋でアイスを食べるときもこんなことをしたな、なんてよぎるけれど誤嚥防止加工のせいで酷い苦みが口の中に広がった。唾液が滲んでくる。嫌な苦みだ。ボールペンで開けた穴にビニルパックの先端を押し込み、ぐっと力を入れて絞る。
無理に開けた穴からジェル漏れてしまう。もうどうにでもなれ、とビニルを指で押し込むとジェルがうまく流れていくようになった、ビニルも歪んでいたのだろう。
あまりにメモリ周辺が熱されているのか、注入した端からジェルが固まっていく。パックを両手で必死に絞る。圧をかけ続けないと、内部で完全に凝固してしまったら熱を逃がせなくなる。しばらくジェルを流し込んでいると膝元に不快な温もり。チューブの先端から緑色の餅が落ちてきた。成功だ。
あとはこれを維持すればこれ以上温度が上がることはないだろう、最新ジェルの吸熱能力をなめるなよ旧式アンドロイド。
「ババババックアップ、進捗6%」
「……嘘だろ」
まさかここまで遅いなんて。あとどのくらいかかるんだ。いや、大丈夫、もう山場は乗り越えた。弱気になりそうな自分に言い聞かせながら、既に感覚が失われつつある両手にもう一度力を込めた。
シャットダウンした機体を前に放心していると、大きな掌が背中を叩いた。
「マエハラくん、よくやったな、私の指示に従ってくれてありがとう」
聞いたことのある明快な太い声、見上げると向かうはずだった西店の副店長だった。何を言っているのかは分からない。そもそもなぜここに?目が合った一瞬、にかっと笑顔を残して夫婦と会話を始める。
「こんにちは、今回はメンテナンスイベントに参加していただきありがとうございます!緊急事態でしたので会場外で対応いたしましたが、規約上こちらの書類にサインを……、その間に私が機体レスキューに連絡を繋げますのでご安心ください」
なんだ、どうなっているんだ。おどおどしていると乱暴に腕を引き上げられる。西店のエース、イガラシさんだ。普段愛想のいい男性だが、目が怒っている。
「ほら、マエハラ、行くぞ」
自分で路駐した社用車の向こう側に同じ車がもう一台。ふたりで乗り合わせてきたのか。イガラシさんが助手席の扉を開けてくれる。苛立ちながらも丁寧なのは人の良さだ、手に力が入らないから助かった。助手席にはごみ袋が敷かれている。身体が重いなと思ったらスーツの膝下はすっかり緑を吸っていて、社用車を汚さずに済むのはありがたい。
なにひとつ説明も引き継ぎもしないままその場を後にしてしまった。車が動き出して、沈黙が皮膚を刺す。数分後、先に口を開いたのはイガラシさんだった。
「お前な、ツキちゃんに感謝しろよ」
ヒガシノさんの下の名前だ。そういえばイガラシさんは同期だったっけ。ふたりとも優秀だからその代のツートップとか双璧とか美男美女とか周囲が好き勝手呼んでいるのを聞いたことがある。
「……ヒガシノさんの電話、俺一方的に切っちゃって」
「ツキちゃんがうちの店へのヘルプコードを登録してくれたんだよ。今お前はうちの店でイベントの手伝いをしてることになってる」
「え?ヘルプ申請って二週間前までにしないと通らないんじゃ」
「申請手順を踏めばな。お前んとこの副店長が申請忘れてたことにして無理矢理登録したらしい。たった数分でよくやるよ」
すっと血の気が引いて、こめかみが冷たくなる。業務は登録した場所でしか行えないのがランクAの規定だ。違反すれば一発で業務に携われなくなる。咄嗟の判断とは言え俺は何をしようとしていたんだ、ヒガシノさんが俺の言う通り退勤処理をしていればクビになっていてもおかしくない。
「ヒガシノさんの電話でおふたりが来てくれたんですか」
「あぁ、クソ忙しいときに主力ふたりでな。お前のコード作業履歴から場所まで特定した上で、ふたり以上で向かってほしいって連絡だった、さすがだよな」
「ヘルプ登録のイベントコードを確認する前に、もう場所まで調べてたんですか」
いや、それだと辻褄が合わない。破損した他社アンドロイドにログインするには自分のコードが店から抜ける必要があったから、退勤処理の代わりにイベントコードを発行してもらった後に場所がばれたはずだ。
イベントコードは全店共有の通知ページにも載らず、開催店舗しか知らない。そのことを教えてくれたのはヒガシノさんだ。ジェルの出庫時に備考として入力はしたが、出庫店舗側では当日中は処理中扱いになり確認できないはず。どういうことだ。
「偶然覚えてたらしい」
「イベントコードを?21桁ですよ?」
「覚えてたんだろうよ」
イガラシさんは真っすぐ進行方向から視線を外さないまま、温度のない声で答えた。俺が同期のアマネに電話でイベントコードを聞いて復唱した、それを聞いて暗記していたのか。何もなければ二度と触れることのない数字の羅列を。
「お前もすごいけどな、ツキちゃんの機転と記憶力、彼女も英雄だよ」
うちのアマネもやる子だけど彼女にはまだ敵わないな、と柔らかい声。
「アマネにも迷惑をかけてしまいました」
「電話を切られたあと訳も分からず入庫して、言われた通りに数分待って、マエハラのヘルプコードが発行されてるのに気づいてすぐ相談してくれたよ。そしたらツキちゃんから電話が来て、未登録の他社機体へのログイン履歴で大体の事情が分かった。ジェルはお前の個人決済じゃなくてうちの店の経費で落としてある、そうしないとイベントで使ったことにならないからな」
開いた口が塞がらない。ひとりで戦っているつもりが散々助けられていたなんて。そしてイベントは他社利用者を引き込むための無料メンテナンスイベントだったのか。エネルギージェルが足りなくなるのも頷ける。
「ふたりがきちんと考えて連携取ってくれたからなんとかすぐ来れたものの、あのな、ああいうときはちゃんと上に相談しろよ。自分で責任取れないことするな」
「すみませんでした。おっしゃる通りです」
「今回はお前んとこのムロヤ副店長の申請漏れと、うちの原田副店長のエリア外業務指示の二点でそれぞれ始末書だ。奇跡的に始末書で済んだんだ。あとうちの店のメンバーもな、今頃忙しすぎて白目剥いてるだろうな。まぁ、あいつらはいい気味だ」
「え?」
俺たちいっつも業務量多いしな、たまには仕返しだ。おどけた言葉を吐きながら先輩の横顔がにやりといたずらっ子のように笑った。それでもこちらを見ないのは真面目な性格の現れだろう。
「手、火傷してるだろ。病院行くぞ。イベント業務中の扱いだから退勤できないし、ふたりでドライブしようぜ。マエハラは魚と肉どっちが好き?」
「えっと、魚、ですかね」
「じゃあ病院終わったら海鮮丼だな。領収切っていいよってどさくさに紛れて許可もらったんだ。その前にお前んちに寄って着替えるか。クリーニング代も経費で落とそう。マエハラってチョコ好きだったよな、好きなの箱買いしていいよ、俺のおごりね」
なんだか力が抜けて、緊張が解けて、一気に疲れと苛立ちと悲しみが押し寄せてきた。なんで訳の分からない人たちに捕まったんだろう。知らない機体のバックアップをよく成功させた。データが本当に残っているかは分からないけど、あれ以上のことはあの場ではできなかった。怒鳴られて怖かった。ひとりで、やるしかなかった。大きなトラブルになる気配を感じながらも、その場から逃げ出す術を思いつかなかった。少し震える手で目元を覆う。
「がんばったな。本当に、よくやったよ」
返事をしたかったけれど声が上擦ってしまいそうで、顔を隠し唇を強く噛んで小さく頷く。口の中にはまだジェルの苦みが残っていて、甘いチョコレートが待ち遠しかった。
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こんばんは、幸村です。
書いてて楽しかったなぁ、あっという間の一万字でした。
大好きなマイルドカフェオーレを飲みながらnoteを書こうと思います。